利用者:要塞騎士/sandbox/1
下書き:甲府信金OL誘拐殺人事件 読売新聞社会部 (2002) は第一審・控訴審それぞれの判決理由を踏まえ、前者は被告人の情状、後者は被害者の数を重視した判決と評している[1]。 本事件の控訴審判決に続き、同年12月には名古屋アベック殺人事件の控訴審判決(名古屋高裁)、翌1997年(平成9年)1月にはつくば妻子殺害事件の控訴審判決(東京高裁)と、検察官が死刑を求刑していた事件で無期懲役の控訴審判決が言い渡される事例[注 1]が相次いでいたが、いずれも検察からの上告はなされていなかった[2]。当時最高検察庁刑事部長を務めていた堀口勝正は、当時は検察内部に「死刑をなるべく回避するという裁判の傾向に対し、上告しても仕方がない、というあきらめが検察内部にも根を張っていた」と証言している[3]。このような被告人に対する量刑が寛大になる「寛刑化」(かんけいか)の傾向、およびそれに端を発する死刑求刑に謙抑的な検察の姿勢が変化するきっかけとなったのは、1997年2月に福山市独居老婦人殺害事件(過去に強盗殺人を犯して無期懲役に処された男が、仮釈放中に再び強盗殺人を犯した事件)の被告人に対し、広島高裁が言い渡した無期懲役の控訴審判決、およびそれに対する検察側の上告であった[4]。 後に東京地裁の裁判長としてJT女性社員逆恨み殺人事件の第一審を担当し、死刑を求刑された被告人に無期懲役の判決(1999年5月27日宣告)を言い渡した山室惠は、同判決で結論を導き出した際に本事件と国立市主婦殺害事件それぞれの控訴審判決が念頭にあったと述べている[5]。なお同事件の被告人は控訴審の東京高裁で死刑を言い渡され[6]、2004年に最高裁で死刑が確定している[7]。 事件当時、被害者が勤務していた支店に近い甲府刑務所で勤務していた坂本敏夫は、本事件について「あの時期でなかったら間違いなく死刑」と位置づけ[8]、「営利誘拐殺人だから、過去の刑事裁判の常識では『死刑』が当たり前だった。」と述べた上で、検察官が上告断念の旨を遺族に伝えた際に「こんな時代ですから、一人を殺したぐらいでは死刑にならないのです」と発言していたことに言及し[9]、少なくとも控訴審判決が言い渡された1996年まで、裁判所が死刑適用に消極的だった旨を指摘している[10]。 「被害者と遺族の自宅と犯人の家、そして犯人が裁判を受けるために拘置された刑務所が同一地域にあった珍しい事件だった。」[9] 脚注注釈出典
参考文献
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