利用者:要塞騎士/sandbox/10
鶴見事件(つるみじけん)は、1988年(昭和63年)6月20日に神奈川県横浜市鶴見区下野谷町で発生した強盗殺人事件[10]。金融業・不動産業を営んでいた男性A(当時65歳)と、その内縁の妻B(当時60歳)が事務所で撲殺され、現金1,200万円を奪われた。神奈川県警は同年7月1日、Aに虚偽の融資話を持ちかけて現金1,200万円を用意させ、事件後にその現金を持ち去った男(髙橋 和利)を犯人として逮捕した[11]。 犯人とされた髙橋は捜査段階で、「バールとプラスドライバーで2人を殺害した」という旨を自供したが[12]、公判では嘘の融資話をAに持ちかけたこと[11]、事件当日に現場(A宅)に行ったことや、現場から現金1,200万円を持ち去ったことは認めたものの、殺害については一貫して否定し、「自分が現場に行った時点で、被害者2人は既に死亡していた」と無罪を主張した[13]。第一審(横浜地裁)および控訴審(東京高裁)は、殺害に用いられた凶器を特定できず、髙橋の捜査段階における自白の信用性を否定する判断を下したが、状況証拠から髙橋を殺人犯と認定し、死刑判決を言い渡した[14]。 髙橋は2006年(平成18年)4月に死刑が確定したが、冤罪を訴えて再審請求し[15]、日本弁護士連合会(日弁連)が再審を支援していた[7]。しかし、髙橋は死刑確定から15年6か月後の2021年(令和3年)10月、収監先の東京拘置所で病死した[16][17]。 髙橋和利本事件の犯人とされ、死刑が確定した髙橋 和利(たかはし かずとし)は1934年(昭和9年)4月28日生まれ[18](事件当時54歳)。本籍地は横浜市南区睦町、事件当時の住居は横浜市戸塚区戸塚町[18]。高橋 和利の表記も用いられる[19][20][17]。 死刑囚(死刑確定者)として東京拘置所に収監されていたが、2021年(令和3年)10月8日に同所で病死した(87歳没)[17]。生前、支援者に対し「死ぬのは怖くない。でも汚名を着せられたまま死ぬのは無念」と話していた[21]。 髙橋は事件前、義弟(妹の夫)の経営する会社が資金繰りに困ったことから、自ら借金をして千数百万円を資金援助したが[22]、義弟の会社は結局、1979年(昭和54年)に倒産[23]。そのため、貸付金の回収は不可能になり[23]、髙橋は莫大な借金を肩代わりせざるを得なくなったため[24]、1982年(昭和57年)ごろからはその借金の返済による負担が、自分の経営する電気工事会社の資金繰りを次第に圧迫し始めた[23]。そのため、新たに知人や金融機関から借り入れを重ねた結果、借金額は更に膨らみ[22]、事件当時には高利の金融業者を含め、約5,000万円の借金を抱えた状態で、事業収益は借金返済に追いつかない状態になっていた[23]。なお髙橋は事件後、事件当日に着用していたシャツ、靴、靴下を処分している[4]。 事件事件現場誘拐現場付近の略地図 1 事件現場(横浜市鶴見区下野谷町3丁目92番地)2 横浜市立鶴見工業高校の体育館3 鶴見小野駅4 被害者夫婦宅(鶴見区小野町17番地)5 朝銀神奈川信用組合鶴見支店(鶴見区鶴見中央四丁目26番10号)事件現場となった「菊屋商事」の事務所(横浜市鶴見区下野谷町3丁目92番地)は[1]、ガラス戸1枚で市道に面した事務所だった[25]。この事務所は、鶴見小野駅(JR東日本:鶴見線)から約200 mに位置し、すぐ近くには横浜市立鶴見工業高校の体育館があった[8]。事務所周辺は、店舗や町工場、アパートなどが混在する下町だった[8]。しかし、最寄り駅である鶴見小野駅は昼間、電車が1時間に1本程度しか来ない小駅で、駅前には商店街があったものの、その通りから分岐していた現場前を通る道は、人通りが途絶えることが多かった[8]。また事件当時、鶴見工業高校の体育館は改築工事中で、おびただしい騒音があった[8]。 事務所のガラス戸には、貸しアパートなどの広告の紙が貼ってあったが、その隙間から事務所の中が覗けるような状態だった[25]。被害者である男性A(当時65歳)と、Aの内縁の妻であった女性B(当時60歳)の夫婦は、事務所から約800メートル離れた自宅(鶴見区小野町17番地)で2人暮らしをしており、自宅から事務所に通って金融業・不動産業の商売をしていた[1]。Aは事件の20年以上前から、不動産を担保にした金融業を営んでいたとされ、人物像については「(Bとともに)仲の良い老夫婦」「高金利で取り立ても厳しかった」などといった証言がなされている[8]。 事件前の経緯先述のように膨大な借金を抱えた髙橋は、事件約1か月前の1988年5月19日、知人である甲(有限会社社長)とともに、Aが経営する「菊屋商事」の事務所を訪れ、同所でAを紹介してもらい、甲の保証によって50万円を借りた[26]。その後、髙橋は1人で菊屋商事を何度も訪ね、50万円、60万円と借金した[27]。髙橋は公判で、このころ、しきりにAから「あんたの身の回りに不動産を持って、女とか博打に狂い、金に困っている人はいないか。いたら紹介してくれないか。うまくいけばお礼をするから。実は前に戸塚の百姓から土地を取ったことがあるんだよ。つい最近も何千万円かの物件を取り損なったんだ」「少し身を入れて仕事を手伝ってくれれば、いい金になるよ」などと持ち掛けられた旨を証言している[28]。それを受け、髙橋は事件1週間前の6月13日、3回目に借りた60万円のうちの半金(30万円)を返済しに行ったところ、半金しか返済できなかったことの後ろめたさや、何度も儲け話を持ち掛けてきたAの歓心を買おうとの考えから、「自分の友人が『会社の金を800万円くらい使い込んで困っている。どっかで都合つけば欲しいな』と言っていた」と持ち掛けた[28]。
捜査14時30分ごろ、被害者夫婦と親交のあったタクシー運転手の男性が事務所を訪れたところ、それぞれ室内で仰向けに倒れ、頭部付近から血を流して死亡しているAとBの2人を発見したことにより、事件が発覚した[33]。 大河内秀明 (1998) によれば、第一発見者の男性は、倒れている2人を見て「無理心中を図った」と直感したが、すぐ助けようとはせず、近くにあった付添看護婦紹介所の事務局へ駆け込み、同局の所長が110番通報した[34]。現場の状況などから、神奈川県警察捜査一課と鶴見警察署は殺人事件と断定し、鶴見署に捜査本部を設置した[8]。事件翌日、捜査本部が2人の遺体を司法解剖したところ[33]、2人は顎を鈍器のようなもので砕かれ、血液が気管に詰まったことによって窒息死したことが判明[35]。2人とも首・顎を鈍器で殴打された傷が確認され、Bにはさらに胸・背中・首の後ろなどを先の尖った硬い物で刺されたような傷も確認された[33]。 事務室のテーブルには、湯茶をもてなした痕跡があった一方[36]、激しく争ったり、物色された痕跡が認められないことから、金銭を巡るトラブルか、顔見知りによる怨恨を動機とした犯行という線で捜査した[8]。警察は、被害者夫婦の長女Cから「父Aは事件の数日前、戸塚の電気屋から『知り合いが会社の金を遣い込んだので、不動産を担保に1,400万円貸してやってほしい』と頼まれ、貸すことにしたという話をしていた」という証言を得たが、現場の事務所内からは、戸塚区在住の男性Xの所有名義になっている不動産の登記簿謄本が発見された[37]。また、その謄本は事件の6日前、Xを従業員として雇っていた髙橋が、横浜地方法務局戸塚出張所で交付申請していたことが判明した[38]。そして、Aが事件当日に下ろした1,200万円が現場からなくなっていた一方、髙橋は事件後の6月25日 - 29日にかけ、金融業者などに次々と多額の支払いをしていたことが判明した[32]。 このため、髙橋を犯人と断定した捜査本部は7月1日6時55分ごろ[32]、髙橋を本事件の被疑者として、県警本部に任意同行した[25]。髙橋は当初、犯行を否認していたが[25]、取調室で厳しく追及した結果、午後になって、2人を殺害して現金1,200万円を奪ったことを自供した[32]。このため、捜査本部は同日18時55分、髙橋を強盗殺人容疑で逮捕(緊急逮捕)した[32]。 翌2日、髙橋は強盗殺人容疑で横浜地方検察庁へ送検され[39]、さらに翌3日には横浜簡易裁判所で勾留質問を受け、10日間の勾留を決定された[23]。髙橋は凶器について、「工具箱に入っていたバールとドライバーを使った。犯行後、返り血の付着した作業衣とともに神奈川区内のゴミ集積場に捨てた」と自供したため、捜査本部は鶴見署外勤課員の応援を得て、神奈川区・鶴見区のゴミを償却する横浜市環境事業局保土ケ谷工場や、焼却灰を捨てる大黒ふ頭処分地を捜索したものの、凶器は発見できなかった[40]。 取り調べ髙橋の弁護人を担当した大河内秀明は、 刑事裁判第一審刑事裁判の第一審は、弁護団を結成していた弁護士それぞれが別の仕事を抱えており、全員が出廷できる日が数か月おきになることなどから、初公判から判決までに6年10か月を要した[42]。 第一審の初公判は1988年11月1日、横浜地方裁判所第2刑事部(和田保裁判長)で開かれた[43]。被告人の髙橋は殺害現場に行って1,200万円を持ち去った事実は認めたが、「現場に行った時刻は10時50 - 55分ごろで、その時点で被害者2人は既に殺害されていた。現場に行ったのは借金の約束があったからだ」と述べ[44]、強盗殺人については無罪を主張した[45]。1989年(平成元年)1月9日に開かれた第2回公判で、裁判長は荒木から杉山忠雄に交代した[46]。 1991年(平成3年)12月27日付で、弁護人が再鑑定人として申請していた内藤道興(藤田保健衛生大学医学部法医学教室主任教授)が鑑定人として選任された[47]。内藤は直後の第30回公判[1992年(平成4年)1月16日]に出廷し、同日の公判(坂井智裁判長)で選任手続きが行われた[48]。その後、第31回公判(1992年12月24日)から結審までは上田誠治が裁判長を担当した[48]。1994年(平成6年)4月の第42回公判で、弁護側は「(自供の内容は)事実経過や殺害順序などが極めて不自然だ」と指摘した[49]。 1995年(平成7年)6月12日の第57回公判で[50]、検察官の論告求刑が行われ、検察官は「髙橋は裁判所の拘置質問でも犯罪事実を認めており、自供内容も具体的詳細である。自供の信用性は揺るぎない」と主張[49]。その上で、「金銭欲だけの動機で、短絡的身勝手な犯行。情状の余地はまったくない」として[49]、髙橋に死刑を求刑した[50][49]。その後、主任弁護人(大河内秀明)による最終弁論が行われ[51]、結審。弁護側は、検察側が描いた犯行経緯の時間的矛盾や、鑑定結果の非合理性などを指摘し、「髙橋の自供は、取調官の脅迫・誘導などによるもので、その内容も客観的内容との違いが甚だしく、任意性・信用性に乏しい。(本事件は)自供偏重の捜査の末の冤罪だ」と主張したほか、被害者の交友関係や、独自に分析した事実経過などから、真犯人は別人である可能性を示唆した[49]。 死刑判決1995年9月7日[52][53]、横浜地裁第2刑事部(上田誠治裁判長、陪席裁判官:秋山敬・丸田顕)で[53]、第一審の判決公判(第58回公判)が開かれた[52]。裁判長を務めた上田は、同日時点で既に定年退官していたため、判決文は中西武夫裁判官(後に控訴審判決を宣告)が代読した[52][54]。同日は、前日から坂本堤弁護士一家殺害事件の捜索活動(一家の遺体発掘作業)が展開されていた中、それまでの弁護側・検察側双方への取材で無罪判決への感触を得ていたマスコミ各社(NHKなど)が法廷に取材陣を送り、判決を注視していたほか、髙橋の妻や被害者遺族であるC、死刑廃止運動の活動家など、多数の傍聴人がいた[55]。 開廷直後[56]、上田裁判長は検察官の求刑通り、髙橋に死刑を言い渡した[57][58]。死刑判決が言い渡される場合、裁判所は主文を後回しにして判決理由から朗読する場合が多いが[56][59]、横浜地裁は「被告人を死刑に処する」という主文を冒頭で言い渡した[注 2][56][54]。 横浜地裁は、現場付近の住民による目撃証言などから、事件発生の時間帯に髙橋が現場付近にいた事実を認定した上で、犯行に至るまでの髙橋の捜査段階の供述の信用性について言及[57]。「髙橋はAに対し、絶対に実現しない融資話を持ちかけ、現金1,200万円を用意させ、事件当日にA宅へ向かう際にもその準備が完了したかの確認に執着していた」「被害者2人が殺害された時刻(10時40分 - 11時10分ごろ)、髙橋は現場で現金1,200万円を発見して持ち去った。その時間帯に髙橋以外の第三者が事務所に入って被害者2人を殺害したという想定は非現実的で、その可能性は非常に低い。弁護人が主張する事実経過の想定も極めて非現実的で、髙橋が事件当日に事務所に赴いた理由や、髙橋の直前までの行動をうまく説明できていない」と指摘した上で[7]、「弁護人の『髙橋が現場を訪れた際、被害者2人は既に死亡していた』という主張は非現実的で、2人を殺害した犯人は髙橋以外にあり得ない」と結論づけた[57]。また、弁護側が「死体の損傷は、(髙橋が自供した)バールなどでは説明がつかない」と主張していた点については、「(捜査段階の髙橋の)供述は、虚偽が混じっている可能性があり、凶器の種類・形状などは完全に解明することはできない」と言及したのみだった[57]。 判決後、弁護人を務めていた2人の弁護士(大河内と内山茂樹)は、「刑事裁判の鉄則『疑わしきは罰せず』と正反対の『疑わしきは罰する』という判決だ」と、判決を強く批判[57]。髙橋は判決を不服として、同日午後に東京高等裁判所へ控訴した[66]。 控訴審第一審判決後[67](事件発生から9年後)[68]、検察は警察に命じて補充捜査を行った[67]。一方、事件から10年となる1998年6月20日には、髙橋を支援する組織「『死刑』から高橋和利さんを取り戻す会」[注 3]が結成された[69]。 1999年(平成11年)4月17日、髙橋宛に東京高裁第11刑事部から「公判期日召喚状」が届き、髙橋は同年4月23日に横浜拘置支所から東京拘置所へ移監された[70]。同年6月2日、東京高裁第11刑事部[71](荒木友雄裁判長)で控訴審初公判が開かれた[72]。 2001年(平成13年)3月5日に開かれた第12回公判以降、第一審で死刑判決を代読した中西武夫裁判官が裁判長を担当することとなった[73]。 2002年(平成14年)7月15日に開かれた第23回公判で弁護人・検察官の双方による最終弁論が行われ、控訴審は結審した[74]。 同年10月30日に控訴審判決公判が開かれ[75]、東京高裁第11刑事部(中西武夫裁判長)は原判決を支持して被告人(髙橋)の控訴を棄却する判決を言い渡した[76]。東京高裁は、「捜査段階での取り調べについては信用性に多大な疑問があるが、捜査機関側に無理な取り調べを行う必要性があったとは考えにくく、自白の任意性は認められる」という判断を示した上で、「髙橋は被害者の事務所に現金があることを知っていた上、事件当時は金に困っており、(2人を殺害して現金を奪う)動機もある。真犯人が現金だけを持ち去ったとするのは不自然」として、「髙橋が犯人」とする第一審の判断を追認した[77]。 弁護人は判決を不服として、同日中に最高裁へ上告した[78]。 上告審2006年(平成18年)2月21日、最高裁判所第三小法廷(堀籠幸男裁判長)で上告審の公判(弁論)が開かれ、弁護人は「髙橋の『借金のために被害者宅を訪れたところ、2人は既に死亡していた』という説明は信用できる。仮に髙橋が2人を殺害したとすれば、現場の血痕の状況などと矛盾する」として、改めて無罪を主張した[79]。弁論を担当した弁護人は、大河内(主任弁護人)と、妹尾孝之の2人で、彼らは以下のように冤罪を訴えた[80]。
このほか、死刑制度は憲法違反である旨や[注 4]、判例違反も主張した[5]。 同年3月28日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)は原判決を支持して被告人(髙橋)側の上告を棄却する判決を言い渡した[86][87]。髙橋は判決訂正申立をしたが、それも同年4月12日に棄却され[88]、同月に死刑が確定した[89][15]。 なお検察庁は1999年4月、犯罪の被害者や遺族らに公判期日や判決結果を通知する被害者通知制度を設けていたが、制度施行前に起訴された本事件は対象外だった[90]。検察庁はそのような事件の被害者らにも、可能な限り日時を伝えていたが、A・B夫婦の遺族である娘Cは事件後、埼玉県から事件現場となった両親宅に転居していた[90]。最高裁は弁論期日が決まった2006年1月、Cの旧住所(埼玉県)に通知書を郵送したが、神奈川県警はCの通知希望や[90]、転居先の住所を最高検察庁[91]に伝えていなかったため[90]、Cは判決期日を知ることができず、上告審判決公判を傍聴できなかった[91]。判決後の同年夏、Cは最高裁第三小法廷宛に「判決を直接聞きたい」という手紙を送った[91]。これを受け、裁判長を務めた堀籠が刑事局に「遺族の気持ちに最大限応えるべきだ」と指示したため、同局の幹部3人(刑事局第一課長の稗田雅洋ら)は同年10月11日、C宅を訪れて判決文を手渡し、内容を説明するという異例の措置を取った[91]。 死刑確定後2006年4月16日、髙橋は横浜地裁に第1次再審請求を行った[注 5][7]。この第1次請求では、上告審で最高裁に提出したものの、判断されなかった証拠(単独犯で2人を同時に殺害したことを否定する証拠)を新証拠として提出していた[92]。また、髙橋は再審請求のための証拠として提出することを目的に、自叙伝(400字詰め原稿用紙約350枚分)を執筆し、その自叙伝は2011年にインパクト出版会から『「鶴見事件」抹殺された真実』(219ページ)として出版された[93]。死刑確定者は接見交通権が制限されるため、再審請求中の死刑囚に関連する書籍が出版されることは異例であるが、これは髙橋の収監先であった東京拘置所が、髙橋の執筆した原稿を弁護団が受け取ることを認めたことによって実現したものである[93]。しかし、横浜地裁は事実取調べを行わず[92]、2012年(平成24年)4月13日、横浜地裁(大島隆明裁判長)は請求棄却の決定を出した[7]。弁護団はこれを不服として[92]、同月19日付で即時抗告を申し立てた[7]。 一方、日本弁護士連合会(日弁連)は新たに法医学者(本田克也[94])に鑑定を依頼した一方[95]、2017年(平成29年)8月25日には再審活動の支援を決定し、事件委員会を設置した[7]。鑑定書は2016年(平成28年)6月にまとめられたが[95]、その内容は、「被害者2人の致命傷となった下顎部の損傷は、バール用の凶器では生成できず、鳶口様の凶器によるものである。また、Bの胸部・背部の損傷はプラスドライバー様の凶器ではなく、ペーパーナイフ用の凶器によるものである」という内容であった[94]。また日弁連は、遺族の代理人としてAの債権処理に当たった弁護士の保管記録を初めて精査した結果[95]、Aから多額の借金をしていた人物2人(XおよびY)[注 6]の存在を挙げた[92]。日弁連は「この2人は一緒に地上げを行っていたが、それに失敗したことで、Aから多額の借金をしていた。2人のうち1人 (X) は事件5日前(6月15日)、額面4,000万円の小切手を振り出してAに渡していたが、その小切手は6月25日までに銀行に持ち込まれる可能性が高く、2人はそれ以前にAから小切手を回収する必要があった。事件後、小切手の写しは発見されたが、原本は発見されず、銀行に提示もされなかった」としている[97]。第2次再審請求で弁護人を務めていた高津尚美(第二東京弁護士会)は、Xが事件当時、金融業者から16億円を騙し取る詐欺事件を起こしたことで、務めていた大企業を解雇され、実刑判決を受けて控訴中(保釈中)だったことに言及し、「Xは当時、控訴審で執行猶予付きの判決を得ようとしていたが、自身の保釈後にYがAに3億円を返済する旨の覚書を作成した際、解雇されたことなどを隠して立会人として署名していた。その件でAから厳しく追及されたXは、支払い猶予のために4,000万円の小切手を振り出したが、Aによってさらなる刑事告訴をされることなどを恐れ、Aを殺害し、詐欺の証拠になりうる小切手などを回収することで、詐欺の発覚と債務を免れようとした」という仮説を立てている[96]。 しかし、これらは「新証拠」として認められない可能性が高いことや、髙橋が高齢であることから、弁護団は2017年(平成29年)12月27日付で第1次再審請求を取り下げ[92]、髙橋は同日付で、横浜地裁に第2次再審請求した[98]。この時に提出した新証拠は、前述の法医学鑑定書や、髙橋以外が真犯人である可能性を示唆するものに加え、「現場の遺留品(黄色いビニール片や黒い小片)は髙橋ではなく、真犯人に由来する」とする証拠や、心理学鑑定(髙橋は犯行を体験しておらず、自白は虚偽であるとする内容)などだった[99]。 その後、再審請求審は横浜地裁第2刑事部(青沼潔裁判長)に係属し[注 7][7]、裁判所・弁護人・検察官による三者協議は2019年(令和元年)10月までに4回行われたが[92]、髙橋は2021年(令和3年)5月下旬に誤嚥性肺炎を発症し、同年10月8日に東京拘置所で病死した(87歳没)[17]。このため、第2次再審請求審は同年11月11日付で訴訟手続の終了決定がなされたが[99]、髙橋の妻が新たに申立人となり、同年12月24日に第3次再審請求を申し立てた[101]。同請求は遺体の傷跡の鑑定結果や、被害者から多額の借金をしていた人物の存在を示唆する記録などを新証拠として、確定判決で認定された凶器の形状が被害者の傷跡と合致せず、殺害の動機を持つ人物は髙橋とは別に存在していたなどとするものであった[102]。しかし横浜地裁から2023年(令和5年)11月7日付で棄却決定がなされたため、弁護側は同月13日付で即時抗告した[103]。 髙橋の妻(2023年11月時点で89歳)は[103]、事件発生から29年が経過した2017年時点でも夫と離婚せず、夫の無実を信じて再審活動を支援していた[104]。また、「『死刑』から高橋和利さんを取り戻す会」の会報がある[105]。 脚注注釈
出典
参考文献刑事裁判の判決文
死刑囚本人による著書
弁護人による著書
日本弁護士連合会(日弁連)の資料
その他
関連項目 |
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