利用者:要塞騎士/sandbox/8
銀めし事件下書き:銀めし事件
銀めし事件(ぎんめしじけん)は、1946年(昭和21年)7月9日夜、日本の長野県北安曇郡平村高瀬入(現:大町市大字平高瀬入)で発生した強盗殺人事件[2]。 北アルプス・烏帽子岳の登山口にあった山小屋「濁小屋」(にごりごや[6] または にごりこや[7]、おおよその座標)で、投宿中の東京慈恵会医科大学の男子大学生4人が同宿していた男2人に襲われ、2人が死亡、2人が重傷を負った[1]。犯人の男2人はいずれも強盗殺人罪で死刑判決が確定し、1948年(昭和23年)7月に死刑を執行された[1]。 この事件は第二次世界大戦終戦直後、国民が食糧難に苦しんでいた日本の世相を象徴する事件とされている[8][9]。また「山には犯罪は無い」と考えられていた中で起きた事件だったため、登山関係者に衝撃を与えた[5]。 銀めし殺人事件[10]、濁小屋事件[11]、濁小屋殺人事件[12]、濁川小屋の殺し[13]とも呼ばれる。鈴木厚 (2011) では東京慈恵医大生殺害事件[14]と呼称されている。 犯人犯人は香川 義春[15](Yoshiharu Kagawa[16])と斉藤 和一[15](Kazuichi Saito[17])の2人である[18]。『信濃毎日新聞』の報道や『長野県警察史』 (1958) では香川は事件当時24歳、斉藤は同21歳とされている[19][15]。彼らは兵庫県神戸市にあった三菱職工学校の同窓かつ三菱造船所の同僚だったことから知人関係にあり、また復員後は似たような環境に置かれた事情などもあって、極めて親密な交際をしていた[4]。 事件当時、香川は造船工員、斉藤は進駐軍雑役夫を職としていたが[注 1]、2人とも定職を有さずぶらぶらしていた[15]。伊藤正一は、2人は1日中働いても満足に食べられるだけの食料を手に入れられず、ヤミ米を買い出しに行く余裕もなかったと評している[12]。 香川義春GHQ/SCAPの資料によれば、香川は1923年(大正12年)3月5日生まれ(事件当時23歳)[16]。本籍は兵庫県西宮市浜町[4]。 香川は神戸市灘高等小学校を卒業後、市内の三菱職工学校に入学して3年課程を修了し、1940年(昭和15年)4月から三菱造船所の工員となった[4]。1944年(昭和19年)5月には現役として広島県の大竹海兵団に入団し、海軍工兵長まで進み、終戦後の1945年(昭和20年)10月28日に復員したが、後に郷里である広島県豊田郡瀬戸田町名荷(生口島、現:尾道市瀬戸田町名荷)の実家に帰り、約1か月間農業を手伝った[4]。その後、神戸市でかつて勤めていた三菱造船所に復職したが、自己の意に満たざりしことがあったことから1日で退職し、神戸市内の闇市などに出入りしていたところ、1946年(昭和21年)2月ごろ、父兄によって瀬戸田町の実家に呼び戻され、同年3月5日ごろからは生口島造船所に工員として勤務していた[4]。 斉藤和一GHQ/SCAPの資料によれば、斉藤は1922年(大正11年)8月8日生まれ(事件当時23歳)[17]。本籍は神戸市長田区東尻池町[4]。 斉藤は神戸市吉田高等小学校[注 2]を卒業後、三菱造船所に入り、養成工として三菱職工学校を卒業後、旋盤工として勤務していたが、1945年6月には現役で和歌山県の田辺海兵団に入団し、海軍一等水兵に進んだ[4]。終戦により、同年11月26日に復員してからはしばらく実家にいたが、神戸市で進駐軍雑役夫として働いていた[4]。 事件現場事件現場となった山小屋「濁小屋」(標高1532 m[21])は、「裏銀座」と呼ばれる北アルプス縦走路のブナ立ち尾根登山口に位置していた[22]。この地点は、葛温泉から高瀬渓谷沿いに10 km奥まで登った「濁沢」の上で[注 3]、烏帽子岳の登り口にある最初の山小屋である[23]。 「濁小屋」の所在地付近は烏帽子岳と槍ヶ岳への分かれ道でもあり、「濁小屋」は多くの登山者に利用されていた[24]。「濁小屋」は宿舎というより、休憩所や売店として多くの登山者に親しまれ、登山ブームの歴史を支えてきたと評されている[22]。また「濁小屋」から約50 m離れた濁川の対岸には、日本発送電(日発)の見張所(高瀬川発電所第三沈砂池の舎宅[25])があった[19]。 濁沢から烏帽子岳への登山道は1899年(明治32年)、陸軍参謀本部によって測量のために開拓され[26]、また大正初期からは高瀬渓谷が発電資本によって開発され、水力発電所が建設されるようになった[27]。「濁小屋」は1920年(大正9年)、地元の営林署と親交のあった木炭問屋の竹村多門治が東京電燈(後の東京電力)のために作業員宿舎に売店を設けたことが始まりで、初期開発工事が終了した大正13年に売店2棟と作業員宿舎(約40坪)は竹村に払い下げられ、登山者向けの「濁小屋」として営業を開始した[28]。竹村は家業が多忙だったことから、濁小屋には管理人を常駐させて運営していた[28]。現場となった建物は1931年(昭和6年)に建設されたもので[10]、面積は木造平屋建て59.4 m2であり[注 4]、後年の火災(後述)で焼失するまで利用されていた[29]。 事件経緯犯人2人と被害者4人が邂逅1946年6月ごろ、斉藤は借金返済の相談のため香川宅に遊びに行き、2、3日間滞在した後、香川とともに神戸市に出て市内の闇市場などで遊んでいた[4]。香川はかつて登山を趣味としており、日本アルプス登山の経験も有していたため、斉藤を誘って日本アルプスへ登山しに行こうと考え、斉藤もそれに賛成した[4]。7月7日ごろ、2人は日本アルプスへ登るために神戸を出発し、9日17時30分ごろ「濁小屋」に到着した[4]。しかし彼らは汽車賃を持ってきただけで、登山の用意も食糧も全く持っておらず、「濁小屋」へ向かう途中で畑から馬鈴薯1貫500匁を盗んでいた[15]。香川と斉藤のうち、1人はリュックサックを背負っていたが、もう1人は風呂敷包みを持っていただけだったとされている[15]。野溝喜代雄は神戸を出発してから「濁小屋」に到着するまでの2人が摂った食事について、途中で立ち寄った松本駅の食堂で食べた代用うどんと、大町で食べた2杯のところてんのみであると述べている[30]。 一方でこのころ、「濁小屋」には東京慈恵会医科大学の山岳部員である同大学3年生の原 震治、予科3年生の助川 佐、下城 正雄、関根 栄三郎の被害者4人が、同じく登山の目的で到着しており、炊事をしていた[4]。事件当時、原は本科3年生の25歳で[31]、助川・下城・関根の3人はいずれも予科3年生の22歳だった[32]。東京慈恵会医科大学の山岳部は戦局の悪化を受け、1943年(昭和18年)夏の夏山縦走を最後に活動を中断しており、終戦から約1年後に活動を再開した矢先に発生した事件であった[33]。被害者4人は烏帽子岳から槍ヶ岳を経由して上高地までを縦走する計画を立て[2]、乾パンや干しブドウなどの食糧、葉巻などを持ち[32]、7月8日に新宿駅から夜行列車に乗車し[32]、翌9日6時に信濃大町駅へ到着した[2]。その後、雨の中を歩いて14時30分ごろに「濁小屋」へ到着したが[2]、関根の証言によれば、自分たちが一度「濁小屋」に到着した際にはまだ犯人2人はそこにはおらず、後に薪を拾いに行ってから「濁小屋」に帰ってきた時に初めてその姿を見たという[3]。伊藤正一 (2014) では、当時は信濃大町駅から濁小屋への登山口までのバスは運行されておらず、このルートは1日がかりの行程だったとされているが[5]、去石信一(『毎日新聞』甲府支局記者)が山岳部の部報などを参考に執筆した記事によれば、駅から高瀬渓谷の方面までバスが運転されており、4人はそのバスの車内で乗客から、「濁小屋」に宿泊するならば近くにある発電所の小屋に連絡っすると便宜を図ってもらえると勧められたという[1]。こうして「濁小屋」へ到着した4人だったが、それまでの雨により飯盒炊爨のための水が濁っていたため、一行は近くの発電所の沈砂地に建っていた舎宅を訪れ[32]、水の出るところを聞き[注 5]、そこに行って炊事の用意をした上で、16時か17時ごろに小屋へ帰ってカレーライスを作るなどし、19時ごろから食事をした[15]。また一行がこの舎宅を訪れた際、応対した舎宅の住民(後の第一通報者)はもう1軒の舎宅が空いているので、そちらに泊まったらどうかと提案していたが、一行は初めての登山であることなどから「濁小屋」で一夜を過ごすことを決めたという[34]。 香川と斉藤は、彼ら4人が自分たちとは違って十分な登山の準備をした上で、白米などの食糧品も多量に用意しているのを見て、盗んできた馬鈴薯しか持っていない自分たちが彼らの前で食事をすることが恥ずかしくなったため、小屋から数十間離れた「セメント小屋」[注 6]に行き、そこで馬鈴薯を焼いて食事をしていた[4]。関根によれば、自分たち4人は居合わせた犯人2人と特に口を利くことはなく、彼らは自分たちが寝た部屋とは別の部屋に入っていき、後に1人が自分たちのいる炉端までタバコの火をもらいに来たが、特に挨拶をすることもなく部屋に戻っていったという[3]。一方で被害者のうちの1人が何も食べずにいた香川と斉藤の姿を見て「こちらへ来てお当たりなさい」と声をかけたが、香川らはその言葉に無性に腹を立てて移動したという文献もある[32]。 被害者4人を殺傷このような状況の中で、香川と斉藤の2人は学生たちが炊いていた白米の飯を思い出し、羨望の念を抑えきれず、ついには彼らが熟睡している隙に乗じて食糧品などの所持品を盗もうと考えたが、相手は4人、こちらは2人と人数的に不利であったため、万が一発見された場合の用意に備えるため、「セメント小屋」から外した門柱を使って角棒2本(いずれも方約2寸、長さ約2尺余り)を造り、20時ごろになって再び「濁小屋」に戻った[4]。そして入口東側の部屋に入って密かに決行の機会を待っていたところ、学生4人は21時ごろ、小屋内の北東端にあった奥の一室に入り、入口より先に原、関根、下城、助川の順に、それぞれ東に頭を向けて眠りに就いた[35]。同日23時ごろ、香川と斉藤は蝋燭を点けて学生たちの寝室を覗き、彼らがいずれも同じ方向に頭を向けて室内いっぱいに寝ており、リュックサックは部屋の奥の隅に置いてあることを確認したため、彼らに気づかれないようにリュックサックを物色することは困難だと考え、そうである以上は学生たちを自分たちの持っている角棒で殴り殺し、所持品を強奪するほかないと判断した[3]。2人は被害者4人のうち2人を最初に殺害すれば、残る2人が目を覚ましても自分たちに凶器がある分有利であり、4人分の食料を奪って朝の始発電車までに大町に向かい、神戸に帰ってしまえば見つからないと考えていた[36]。 そのため香川は寝室の奥に、斉藤は入口付近に、それぞれ角棒を持って立ち[3]、「ワン、ツー、スリー」の合図とともに、就寝中の被害者たちの頭部を凶器の角材で殴打した[15][37]。斉藤は公判で、被害者たちに生きていられては困るため、殺して食糧を奪うつもりで殴りつけたと述べている[3]。学生たちは流血して呻き声を上げ、苦悶の末にほとんど動かなくなったため、2人は彼らをこのまま放置すれば死亡するだろうと思い、彼らの洋服のポケットやリュックサックを物色、現金合計約363円、写真機、腕時計、食糧品、衣料品、雑貨など合計約100あまり点を奪った[3]。原と助川の2人は頭蓋骨骨折、脳挫傷、硬膜下出血などの傷害を負い、間もなく死亡した[15]。彼らの死因は「広汎なる硬脳膜下出血、及脳腫脹に基く脳圧迫に因る血行運動神経中枢並は呼吸中枢麻痺」とされている[3]。また生存した下城も3か月、関根も3週間の治療を要する重傷を負った[15]。 関根の証言によれば、自身は襲撃された際には寝入っていたため、その時のことはよく覚えていないが、朝5時ごろに山小屋に10人程度がやってきて「犯人が捕った」と言われたころに目を覚ましたところ、助川は既に絶命しており、当時はまだ息があった原もやがて絶命したという[38]。また下城は襲われた当時、仲間の3人は熟睡できていた一方、自分はノミが気になってなかなか寝付けなかったと述べている[34]。下城は襲われた当時の状況について、うつ伏せになって寝ていたところ、目を覚ました際に恐鳴や殴る音が聞こえ、やがて自分も仰向けに引き起こされて2、3回殴られたが、その際には目をつぶって歯を食いしばり、死んだふりをしてやり過ごし、犯人の隙を突いて沈砂池近くにあった第一通報者宅へ助けを求めに行ったという旨を述べている[38]。 捜査その後、2人は被害者4人全員が死亡したものだと思い、彼らの持っていた米、煙草、靴、衣類などを自分たちのリュックに詰め、手帳など証拠となりうるものをすべて焼却し、2時ごろに大町へ向かって出発した[37]。香川は第一審の第1回公判で、凶器の棒で被害者たちを殴打すれば一撃で死亡するだろうと思った上で殴ったと述べた上で、自分たちが逃走する際に2人は既に死んでおり、別の1人は呻いていたが間もなく死ぬだろうと思ったことや、逃げ出た1人(下城)も遠くまでは逃げられず、途中で死ぬだろうと思ったという旨を述べている[3]。 しかし下城が息を吹き返し、高瀬川の対岸にあった発電所の番小屋へ助けを求めたことによって事件が発覚、番小屋にいた作業員が電話で大町警察署へ通報した[37]。『長野県警察史』によれば、下城は頭を4、5回棒のようなもので殴られ、他の者たちのうめき声が聞こえる中で自分たちのリュックサックを持ち去ろうとする者がいたことから、賊に襲われたことを悟ったものの、賊がなかなか立ち去ろうとしなかったため、裏口から這い出し、小屋から約1町離れた日本発送電の社員宅まで行き、助けを求めたという[2]。この家は人里から5里離れた山中にあったが、近くに発電所の保安電話があり、昭和電工を経由して警察署と連絡を取ることができた[36]。電話の架電から署の受電までに要した時間は約8分だった[36]。舎宅に住んでいた男性は、昼間に訪ねてきた学生が襲撃されたと知って警察に通報すべく、舎宅から4 km離れた発電所舎宅で救援を知らせ、裏山に隠れていた[34]。舎宅に残っていた彼の妻は新生児を抱いた状態で電燈を消し、出刃包丁を持って電話番をしていたという[34]。永井誠吉は、4人を殺傷した香川と斉藤は、荷造りをしている最中に音がし、被害者たちのうち1人が逃げ出したことに気付いたが、裏を探しても見つからなかったため、「どうせ逃げても、あの傷では途中で死ぬだろう」と考えてそのまま逃走したと述べている[39]。なお、斉藤はこの時に逃げ出した学生(=下城)を見つけた場合は殺害するつもりだったと述べている[3]。 7月10日0時8分、昭和電工大町工場を経て所轄の大町警察署に事件の第一報が知らされたため[40]、同署は非常線を張り、司法主任の茅野ら[41]署員2人が現場へ急行した[15]。また長野県警察部(現:長野県警察本部)刑事課からも警部補の野溝喜代雄、巡査部長の矢野正尚らが大町署からの通報を受け、現場に急行した[42]。大町署員らの乗車したハイヤーが大町から2里離れた平村寒沢地籍県道大町槍ヶ岳線に差し掛かったところ、葛温泉方面から大きなリュックを背負った男2人が歩いて来たため、職務質問を行った上でリュックの中身を調べたところ、被害者の1人である関根のネームが入った袋や米1斗などの被害品が発見されたため、2人を逮捕した[41]。2人の身柄が確保された現場は、高瀬川第三発電所の上のところで[39]、逮捕時刻は署への入電から約2時間50分後、事件発生から4時間足らずのことであった[41]。2人は逮捕後、この車に乗った者たちが警察官だとは知らなかったと述べているが、永井はその理由について、彼らは「濁小屋」近くの舎宅の存在、そして下城がその舎宅に駆け込んで助けを求めたことを知らなかったためであると述べている[43]。また2人は身柄を確保された当時、藁草履を履いており、1人のズボンには血痕のようなものが付着していたという[39]。 当時、大町署の司法主任として捜査を担当した茅野鶴市は、事件当夜は葛温泉の約500 m手前で崖崩れがあり、自動車ではそれ以上先に進めなかったため、自動車をその地点から約300 mバックさせた上で方向転換をしようとしたところ、崖崩れの地点で待機していた同僚の刑事2人が犯人の男2人を見つけたため、自分たち6人で不審尋問をしたところ、1人の手に血液のようなものが付着していた上、もう1人のワイシャツなども破れるなどしていたと述べている[25]。また2人は身柄を確保された当時、血のついたリュックを背負っていたとする文献もある[37]。野溝によれば、事件当夜は偶然現場に向かう途中の道で崖崩れがあり、車で現場に向かおうとしていた警察官らはその崖崩れによって行く手を阻まれる格好となったため、途中からは徒歩で現場に向かおうとしていたが、ちょうどその時に下山しようとしていた犯人たちと鉢合わせしたという[36]。また茅野は事件の少し前に烏帽子岳であった変死事件の捜査のため、烏帽子岳に登っており、濁小屋などの現場の状況を把握していた[36]。当初の通報内容では、犯人は「数名」となっていたため、茅野らは彼ら2人以外にも共犯者がいると見て、身柄を確保した2人を警察官2人に受け持ちさせ、4人で現場に急行したところ、舎宅で瀕死の重傷を負った下城が住人に介抱されていた[25]。 逮捕後の取り調べに対し、香川は特段の準備をせずに険しい日本アルプスに登山しようとした理由について、働くことが嫌になり、遊び歩くためにも金が必要だったため、世の中が面白くなくなったことから、山で餓死によって自殺するためだったが、斉藤にはそのことは話さなかったという旨を一貫して主張した[44]。一方で斉藤は、自分は山のことは全く知らず、香川から「山に行けば山ブキとか、いろいろの食べられるものがある。山は面白いから行こう」と誘われたという旨を供述した[44]。野溝喜代雄はこれらの2人の供述を踏まえた上で、自殺志願者がその方法として餓死を選ぶことの不自然さ、および山で自殺しようという者が死ぬ意思のない者を道連れにすることも無理心中を除いてまた不自然であることを指摘し、2人とも登山者から所持品を強奪する目的で日本アルプスまで向かった可能性が高いと指摘している[44]。また2人は捜査段階から公判に至るまで、どちらが先に被害者たちを殺害しようと言い出したかについて、互いに自身ではなく相手であると主張していた一方、犯行前から自分たちが死刑になるとまでは考えていなかったようで、「こんな重い人殺しをしてしまつて、十年くらいの刑は覚悟しているが、若い時代を刑務所で過ごさねばならないと思うとかなしくなる」と供述していた[44]。 刑事裁判香川・斉藤の2被告人は強盗殺人、同未遂の罪に問われ[4]、1946年7月13日に身柄を松本刑務所に収容され、予審に付された[45]。公判で香川は当初、被害者たちが寝入っている隙にひそかに食糧を盗むつもりでいたが、被害者たちの寝ている姿を見て困難だと思い、棒で撲殺した上で奪おうと思ったと供述していたが、後の公判でその供述を翻し、凶器の棒は被害者たちを撲殺するためのものではなく、脅すために作ったものだが、斉藤が被害者を殴打する直前に「ワンツースリー」と掛け声をかけたことから、被害者たちに目を覚まされたと思い、思わず殴ってしまったという旨や、殴った際も学生たちが死ぬとは思わなかったという旨を主張し、傷害致死罪の成立を主張した[44]。一方で斉藤は「ワンツースリー」と声をかけたのは自分ではなく、香川であると主張した[44]。また2人は捜査段階で、下城が逃げ出そうとしたため彼を捜し出して殺そうとしていた旨を述べていたが、公判ではそのような供述を翻し、下城を殺すつもりではなく、ただ捕まえるつもりであっただけだと主張した[44]。 死刑判決同年11月9日に長野地裁松本支部で開かれた第一審の第2回公判で、2被告人はいずれも検事の渡辺から死刑を求刑された[46]。同年11月28日の第4回公判で、長野地裁松本支部(菅原裁判長)は2被告人をいずれも死刑とする判決を言い渡した[18]。 2被告人は判決を不服として東京高裁へ控訴したが[15]、1947年(昭和22年)8月11日に東京高裁第3刑事部(早野儀三郎裁判長)[47]で再び死刑判決を言い渡された[15]。2人とも同判決を不服として最高裁へ上告したが、後に上告を取り下げたため死刑判決が確定した[15]。GHQ文書によれば香川は同年9月20日付[16][48]、斉藤は8月23日付でそれぞれ死刑が確定している[17][49]。 死刑執行1948年(昭和23年)7月13日、死刑確定者(死刑囚)となった2人は宮城刑務所で死刑を執行された[15]。香川(25歳没)の死刑は9時53分から10時5分に[16]、斉藤(25歳没)の死刑は10時47分から11時2分にかけてそれぞれ執行された[17]。 2人の遺体についてはそれぞれの父親に引き取りを求める電報が送信され、香川の遺体は彼の父親が引き取ったものの[16]、斉藤の父親からは返答がなかったため、斉藤の遺体は東北大学医学部に献体された[17]。 事件後出海栄三は「発電所の番小屋まで走って電話で警察を頼んだ生き残りメンバーの一人」について、事件から4年後の9月24日[注 7]に谷川岳幽ノ沢で遭難死したと述べている[50]。 事件現場となった「濁小屋」は、管理人の竹村が事件後の1950年(昭和25年)に死去して以降、次男の竹村多位司がその経営を引き継いだ[51]。その後、濁小屋は1958年(昭和33年)6月に建設された「晴嵐荘」とともに竹村多位司によって経営され[51]、関口直吉が管理していたが[23]、1960年(昭和35年)3月7日に全焼しているのが発見され[23][29]、焼け跡から男性の遺体が発見された[52]。当時、建物内には食糧やテント、布団が入っていたといい[24]、建物は1959年(昭和34年)12月14日ごろに入口や窓に板を打ち付けて閉館していたが[10]、裏戸だけは自由に入れるようになっており、1960年2月24日から4日間、明治大学山岳部の8人が宿泊していたという[53]。同年3月6日朝に高瀬川第五発電所の運搬夫が付近を通りかかった際には燃え残りの煙が見えていたことから、5日夜から6日朝にかけて焼失したものと見られる[10]。遺体の周辺にはピッケル、リュックなどの登山用具はなく、また焼け跡からは灰になった手帳らしきものと熱で溶けた酒の瓶が発見された[52]。遺体は20歳から30歳程度の男性で、遺体に致命的な外傷がなく、焼け残った胃の中から多量のアルコールが検出されたこと、内臓に出血が認められなかったことから、他殺ではなく失火による事故死にほぼ間違いないと判断されている[54]。また遺体が発見された部屋は、殺人事件が起きた時と同じ部屋だったとも報じられている[54]。 火災後には1962年(昭和37年)に3棟が新築されたが[1]、これらの建物も1969年(昭和44年)8月11日[21]、中部山岳全域を襲った突然の大豪雨によって倒壊、流失した[22]。当時、「濁小屋」と建設省の砂防工事のために入っていた前田建設の飯場(同様に流失)には登山者30人と作業員120人がいたが、いずれも濁流に襲われる前に工事用の空き地へ避難しており、無事だった[55]。流失後に東京電力の高瀬川水系で大規模電源開発計画が施行され、高瀬ダムの建設が開始されたため、「濁小屋」は再建されることなく約半世紀の歴史に幕を閉じた[22]。「濁小屋」の跡地は1979年(昭和54年)に完成した高瀬ダムの湖底に水没することとなったが[1]、喰代驥はその損害補償額として相当な額が要求されたと述べた上で、高瀬渓谷のそれまでの歴史を踏まえ、高瀬渓谷は明治から久しく人間社会が定着していた地であったと評している[26]。 事件の影響・評価など長野県警察はこの「濁小屋」で発生した強盗殺人事件について、事件当時は特異な事件として大きな話題を呼んだ事件であると評している[42]。また事件当時、大町署員として捜査に携わった野溝喜代雄は、この事件を早期解決できた要因として以下の点を挙げている[36]。
この事件を受け、東京慈恵医科大学山岳部のメンバーたちの間には無医村状態となっていた山中に診療所を開設しようという動きが興った[50]。そのころ、北アルプスの槍ヶ岳(標高3,180 m)にある槍ヶ岳山荘(標高3,100 m)[56]の初代経営者は、終戦直後に松本市に在住していた医学博士の野村忠男(慈恵医大山岳部OB)と親交があり、今後の登山者増加を見越して診療所をぜひ設けるべきだと提案を受けていたことから、慈恵医大側からと利害が一致する形となり、1950年(昭和25年)7月25日には槍ヶ岳山荘に慈恵医大山岳診療所が設置された[57]。また東京慈恵会医科大学OBで、日本山岳会エベレスト登山隊への参加歴を有する大森薫雄は、この事件を「当時の世相を反映する珍しい遭難事故」と形容した上で、それ以外にも慈恵大学山岳部が多くの遭難者や傷病患者が目撃していたことから、現役山岳部員たちの「遭難者あるいは傷病者をいかにして助けるか」に対する熱意が高まり、それが先輩の会である「慈恵医大山の会」を動かす格好となり、標高3000 m超の槍ヶ岳への診療所設置のきっかけとなったと評している[58]。 小野幸はこの事件について「社會惡がこの淸かるべき私達のプレーグランドを犯した」「今まで山の遭難と云へばその殆んどの原因が自然對人の關係にのみ發生して居つたのが人閒對人閒の最も悲しむべき行爲に依つてなされたのである。之は敗戰日本が生んだ新しい遭難型であり現代社會の生活苦が行はしめた行爲の一つなのである。」と述べた[11]。伊藤正一も、当時「山には犯罪は無い」と考えられていた中でこの事件が起きたため、事件は登山界に大きな衝撃を与え、登山者たちに警戒心を呼び起こしたと評している[5]。 大町署の司法主任として犯人逮捕に当たった茅野鶴市は[59]、同年に公開された映画『銀嶺の果て』(監督:谷口千吉)について、この濁小屋で発生した事件の直後に『山小屋の三悪人』という題名で企画・制作されていたが、当時の山岳会などの関係者が「山の神聖を汚す」との理由で反対したことから公開前に改題されたという旨を述べている[25]。 同一類型の犯罪終戦直後の犯罪事件当時の日本は第二次世界大戦の敗戦直後の混乱期にあり、長野県のみならず日本全国で食糧難などを起因とした犯罪が続発していた[60]。永井誠吉 (1977) はこの事件について「終戦直後食糧危機の時代、犯罪に表れた一つの事件として特筆される悲劇」と評している[31]。 鈴木厚は、終戦からの約3年間は終戦による混乱に加え、1945年9月の枕崎台風や暴風雨、冷害などによる農作物の不作、朝鮮・台湾からの食糧輸入途絶、引き揚げ者の一斉帰国など原因で、日本全国で国民が飢餓に苦しんでおり、この事件以外にも飢餓を起因とする事件(1945年12月19日に山手線の満員電車内で発生した乳児圧死事件、歌舞伎俳優一家殺害事件、小平事件など)や、食糧不足による欠糖病患者・餓死(亀尾英四郎や山口良忠の餓死事件など)が相次いでいたと述べている[61]。また南波杢三郎も「物取り動機」の「物欲殺人」、それも「生命保持」が目的である事件の例として、この濁小屋の事件と、1953年(法話28年)1月に東京都渋谷区で浮浪者の少年2人が、食糧に窮したことから強盗目的でタクシー運転手を殺害した事件を挙げている[62]。 この「銀めし事件」が発生した当時、長野県警察部の刑事課は同年5月9日に下伊那郡市田村(現:高森町)で発生した一家7人殴殺事件の捜査に追われていた中であり、また発生直後の7月23日夜には埴科郡東条村(現:長野市)で朝鮮人らによる強盗事件が発生、屋代警察署の巡査部長が犯人らに射殺されるという事件も発生していた[42]。長野県内で同年中に発生した強盗殺人事件は、「銀めし事件」や市田村の一家7人殴殺事件など8件に上り[42]、強盗殺人以外も含めた殺人事件(嬰児殺を含む)の件数は39件、強盗事件は49件を数えた[60]。長野県警は「戦後の犯罪の特質」や「当時の時代的背景、警察事務のありし方向」を如実に示した終戦直後の事件として、この「銀めし事件」や市田村の七人殺し、屋代警察署の巡査部長射殺事件、1951年1月19日に長野地裁前で起きた長野自由労働組合員らと長野市警察の警官隊との乱闘事件に伴って発生した屋代警察署巡査の殉職事件といった事件を挙げており[8]、長野県もこの「銀めし事件」や市田村の一家7人殺害事件、北信地方のりんご生産農家に対する強盗事件などといった事件を、戦後混乱期の食糧難に起因する犯罪の事例として挙げている[9]。 伊藤はこの事件当時、食糧難から登山は困難な時代であり、北アルプスでも登山者の姿がほとんど見られなくなっていたにもかかわらず、山小屋から布団や窓ガラスなども含めた物品が盗まれることが相次いでいたことや、被害者たちは苦労の末に登山のための食糧を蓄えてこの登山に臨んだということを述べている[12]。 登山客を標的とした凶悪犯罪1979年(昭和54年)7月7日には、奥秩父山塊を縦走していた4人パーティのうち、登歩渓流会に所属していた女性メンバー2人が丹波川小常木谷(山梨県北都留郡丹波山村)を遡行後に仲間2人と別れたまま行方不明になった後、水晶山頂付近の原生林(埼玉県秩父郡大滝村[63])で変死体となって発見されるという事件が発生している[64]。埼玉県警察は捜査本部を設置し、事故死と他殺の両方の線で捜査を行っていたが[64]、登歩渓流会内で行われた捜索会議でも、他殺の前例としてこの「濁小屋」事件が挙げられている[65]。捜査本部は同年12月、「他殺を裏付ける有力な証拠は発見できなかった」として解散したが[66]、1983年(昭和58年)9月3日から山梨県北巨摩郡須玉町の奥秩父山系瑞牆山に単独で登山していた女性(当時22歳)が行方不明になり、19日に瑞牆山中腹で腐乱死体となって発見されるという事件が発生し、同月24日には死体発見現場近くにある山小屋「富士見平小屋」の管理人である男(当時50歳)がこの女性を乱暴しようとして襲った末に死亡させた[注 8]として山梨県警察に強姦致死、死体遺棄容疑で逮捕された[68]。この事件は瑞牆山OL事件と呼称されているが[67]、同事件の被害者が襲われた現場と水晶山の事件の被害者の死体発見現場は約20 km離れている一方、同じ奥秩父縦走ルートにあり、ほぼ1日行程であることなどから、埼玉県警は山梨県警と連絡を取り、水晶山事件についてもこの男の関連を調べた[69][70]。しかし瑞牆山OL事件の犯人の男は水晶山事件では立件されず、瑞牆山OL事件の強姦致死と死体遺棄の罪にのみ問われ、1984年(昭和59年)6月5日に甲府地方裁判所(上田耕生裁判長)で懲役12年(求刑:懲役15年)の判決を言い渡され[67][71][72]、同年10月29日付で東京高裁への控訴を取り下げたことにより、刑が確定している[73]。事件後、現場には山小屋の管理を委託していた増富ラジウム峡観光協会が供養塔を建立した[74]。 事件を題材にした作品など
脚注注釈
出典
参考文献
熊本大学生誘拐殺人事件下書き:熊本大学生誘拐殺人事件
熊本大学生誘拐殺人事件(くまもと だいがくせいゆうかいさつじんじけん)は、1987年(昭和62年)9月14日に日本の熊本県玉名市で発生した身代金目的の誘拐殺人事件[3]。4人の男が大学生の男性を殺害後、被害者の家族に身代金5000万円を要求した[3]。主犯の田本 竜也[4]は被害者の小学校時代の同級生で、1998年(平成10年)に最高裁で死刑判決が確定、2002年(平成14年)9月18日に福岡拘置所で死刑を執行された(36歳没)[3]。 この事件は、戦後日本で初めて成人男性が殺害された身代金目的誘拐殺人事件である[5]。また田本は最高裁に上告中だった1996年(平成8年)12月、収監されていた福岡拘置所で看守Xと共謀して脱獄未遂事件を起こし[6]、共犯Xは懲戒免職され、懲役2年6月の実刑判決を言い渡されている[7]。この脱獄未遂事件発生を受け、当時の福岡拘置所長が飛び降り自殺したほか、Xの上司ら12人が訓告、戒告などの処分を受けている[7]。 田本竜也犯人は主犯格の田本竜也(逮捕当時21歳)と男SM(同35歳)、男Y(同20歳)、男SS(同20歳)の計4人である[8]。4人のうち田本とSSの2人は玉名市伊倉北方の出身であり、田本は市立玉名町小学校で5年生・6年生の時にAと同じクラスだった[9]。しかしAが誘拐される直前まで一緒にいたAの親友は『熊本日日新聞』の取材に対し、田本とAは小学校時代から仲が悪く、事件の2、3か月前には玉名市内のスナックで2人が口論になり、Aが田本に殴られていたという旨を証言している[9]。SSは専大玉名高校の商業科に在学していたが、Aも同校の普通科に在学しており、SSとAは顔見知りの関係だった[9]。またYは鹿児島県鹿児島市出身で、田本とは少年院時代の知り合いである[10]。 田本は1966年(昭和41年)4月、玉名市で暴力団組員の父と2人目の妻との間に生まれ、幼少期は病弱で一人っ子だったことから甘やかされて育った[1]。玉名中学校時代から不良グループのリーダーとなってシンナーを吸引したり、バイクの無免許運転をしたりして何度も警察から補導されたりするようになった[1]。中学校卒業後は調理学校に入学したが、2か月余りで退学し、その直後には傷害事件を起こして熊本家庭裁判所で保護観察処分を受け、配管工として働き出したが、それも1か月程度で辞めた[1]。1983年(昭和58年)1月から縁者の経営する福岡県久留米市の食堂で住み込みの見習いとして働き出したが、同年3月には自動二輪車の無免許運転で歩行者を撥ねて死亡させ、逃走したとして中等少年院送致となり、1984年(昭和59年)3月に福岡少年院を仮退院した[1]。『熊本日日新聞』は、田本は1983年に玉名市内でオートバイを無免許運転して死亡ひき逃げ事故を起こし[注 1]、鹿児島県の少年院に送られたが、その少年院で一緒にいたYと知り合ったと報じている[9]。 1984年6月、田本は無免許運転・器物損壊事件を引き起こして在宅試験観察になり、同年9月には再び無免許運転で逮捕状を出され、逃走して上京する[1]。同年12月に玉名市へ戻り、暴力団道仁会系古賀組の事務所に見を置いていたが、1985年(昭和60年)3月に逮捕されて中等少年院送致となり、1986年(昭和61年)3月に人吉農芸学院を仮退院した[1]。その後、再び古賀組に身を置いたが、嫌になって自宅に戻り、東京・玉名・長崎などで営業マンやボーリング工などの仕事をしたものの、いずれも長続きせず自宅に戻り、無為徒食の生活を送っていた[1]。 被害者同事件の被害者である男子大学生A(21歳没)は会社社長の長男で[2]、事件当時は第一経済大学の2年生で[8]、高校生の弟、小学生の妹がいた[13]。 Aの父親は1937年(昭和12年)に生まれ[14]、玉名郡長洲町で洋品店を経営していたが、1968年(昭和43年)3月に玉名市へ進出し、同市の目抜き通りに「司洋品店」を開店した[9]。その後も事業拡張を続け[9]、事件当時は玉名市高瀬で洋品店を経営していたほか[15]、山鹿市・八代市・人吉市・本渡市(現:天草市)・水俣市、そして県外にも福岡県大牟田市、大分県大分市、福岡県福岡市など13支店を有し、パチンコ店経営や貸しビル業も経営するなど玉名市でも有数の資産家として知られ、その年商は数十億円と言われていた[9]。 事件前の動向1987年(昭和62年)3月ごろ、田本は共犯の男SS(1966年生まれ)とともに上京した際に「大場組」の世話になり、1984年から同組の組員になっていた男SM(1951年〈昭和26年〉生まれ)と知り合う[1]。田本は大場組の組員になり、SMと親しく付き合うようになったが、同年7月10日ごろに組の金銭を持ち逃げしたとしてSMとともに組を追われるようになったため、玉名市の自宅に一緒に帰った[1]。たもとはこのころから、適当な仕事がなければ最後の手段としてAを誘拐して殺害し、身代金を奪うという話をSMに持ちかけるようになった[1]。同月末ごろ、男Y(1967年〈昭和42年〉生まれ)が田本宅に居候するようになり、またSSも足繁く田本宅に出入りするようになった一方、同年8月上旬には両親が家を出たため、田本たちは奔放な生活を営むようになった[1]。 田本は公判で、SMから犯行前に「玉名で企業を相手に恐喝できないか」と持ちかけられ、Aの父親が経営する会社を恐喝しようと計画したが、難しいと見たのでAの弟や妹を誘拐する計画に変更し、2人で計画を練ったものの、SMから「Aと同級生だろう」と言われ、顔を知っていたAを狙う計画に変更した、と述べている[17]。一方でSMは、1987年8月、上京中の田本から「玉名に金持ちがいる。子供を誘拐して金をとろう」と持ちかけられ、当初はAの弟や妹を誘拐の標的にする話が出たが、彼らの顔がわからなかったため、田本の小学生時代の同級生で面識のあるAを標的に決めたと述べ[13]、また第一審の公判では、東京から玉名に帰る新幹線の車内で同乗していた田本から、Tグループの社長は金を持っているし、後ろめたいことをやっているから、それを種に脅したら金を出すはずだと聞かされており、後に田本の家で世話になっているうちに田本から、当時小学生だったTグループの社長の娘を誘拐して金を奪うことを持ちかけられた、と供述した[18]。そのため、田本の運転する自動車に乗り、社長の娘の通学していた小学校や洋品店、そして金を取る場所として考えた明星病院の近くを下見するなどしたが、小さい子供は泣くから誘拐は難しいのではないかと話したところ、田本から自身の同級生であり[18]、社長の長男である被害者Aを誘拐し[19]、殺害することを持ちかけられた[18]。 同月末以降はSSも田本宅で寝泊まりするようになり、SMは田本から持ちかけられていた誘拐殺人の計画にYとSSも引き入れることを提案、身代金の額も5,000万円にすることに決定した[1]。一方でかねてから居候していたSM・Y・SSの3人を追い出すように注意していた田本の父親が9月10日に退院してくることになったため、田本は自宅を出るからには計画を実行するしかないと決意し、同日に4人で軽トラックに乗って自宅を出た[1]。同日夜、4人は福岡市内のラブホテルからAの在学していた第一経済大学へ電話をかけ、Aの住所を調べたうえで呼び出すことや、田本がAを飲み屋に連れて行ってビールに睡眠薬を入れて眠らせ、福岡市内の山中でロープで縛り、穴に埋めて殺すこと、SMが電話で身代金を要求することなどを決めた[20]。 翌11日、4人は福岡のモーテルで田本主導の下に犯行計画を練り、概括的共謀を遂げ、その費用として「大場組」から上京のための費用と偽って10万円の送金を受けた[1]。同日[1]、大学や実家に電話をかけるなどしてAの居所を探したが[21]、Aは玉名市内にいることが判明した[1]。このため4人は急遽予定を変更し[20]、レンタカー会社から借りた軽トラック[注 2]に乗り換え、玉名市に向かった[1]。犯行に用いた車は福岡市内で借りたものだが、4人はこの車を借りた直後、Uターン禁止違反で福岡県警察に検挙された際に本名を答えており、これがその後の事件捜査の過程で割り出される遠因となった[21]。また、4人は殺害後にAの遺体の足を縛るための荷造り用ロープを準備していた[21]。 そして4人は偶然Aを見つけたが、その日は立ち話をしただけで別れた[1]。翌12日、4人は犯行に使用するためのガムテープやロープを購入した上で、殺害場所の下見をしたり、殺害現場について話し合ったりした[1]。そして12日・13日とモーテルに宿泊したが、Aが見つからないことに焦りを感じていたところ、14日21時ごろになってAの恋人である女性Bが同乗しているAの車を発見したため、追尾しながらその車内で具体的な犯行の共謀を遂げた[1]。Aの車を見つけたのは、その車がAの友人宅から出てきた際であり、一時見失ったものの、その後再発見したという[21]。 犯行当日Aを誘拐・殺害4人は9月14日21時30分ごろ[1]、玉名市にある蛇ケ谷公園(座標)の駐車場で[22]、BとドライブしていたAの車を呼び止めた[23]。Aが同公園駐車場に車を駐車したところ、Aの車を尾行していた田本はその側に自分の車を停めて車を降り、同様に車から降りたAに対し、品物を熊本まで届けてほしいなどと話しかけ、それを承諾したAに対し自分たちについてくるよう言い[1]、Aを玉名市築地の小岱山[注 3]中までついて来させた[20]。その目的地は、殺害現場および遺体発見現場となった廃材捨て場(座標)で、蓮華院誕生寺奥之院から500 m入った山中に位置している[8]。Aは当初、Bを連れたまま田本たちについて来ていたたが、田本は殺害現場となる廃材捨て場へ向かう途中、「今から品物を取りに行くから、彼女はやばいから置いといてくれ」などと言い、Aのみを自車の後部中央座席に乗り込ませて誘拐した[1]。4人は当初、Aが一人になったところを誘拐する計画だったため[13]、呼び止めた時点でAがBと一緒にいたことは捜査員曰く「完全な予想外」であり、それが「とにかく遠くへ逃げよう」という心理を誘発、Bを11日間にわたって連れ回す遠因になったという[21]。 かくして22時ごろ、4人はAを廃材捨て場に連れ込み、田本以外の3人は品物を探すふりをしてAに攻撃を加える機会を窺ったが、最初の一撃を加える予定だったYは空の一升瓶を手にしたものの、実行を躊躇っていた[1]。それを見た田本はYに近づき「それですっとや」と話しかけて実行を促し、SSも背後からついてくるよう合図したため、YはSSの背中で隠すようにしながらAの背後に近づき、一升瓶でAの後頭部を1回殴りつけた[1]。Aがその場にしゃがみ込んだところ、SMはAを右足で蹴ってうつ伏せに倒した[1]。Aは「自分は何も悪いことはしていない。何でも言うことを聞くから、勘弁してくれ。」と哀願したが、4人はそれを意に介さず、田本以外の3人はAの頭部めがけて順次、重さ10 kgのコンクリートブロック片を持ち上げながら計10回程度投げつけた[1]。それでもAは絶命せず「タモッチ助けてくれ」と田本に助けを求めたため、3人は一時犯行の手を止めたが、田本はその3人に対し「まだ生きとるけんが、とどめばささんや。」と指示しながらブロック片をAの頭部に2回投げつけ、Aを殺害した[1]。Aの死因は右側頭部頭蓋骨骨折による脳内出血である[1]。 殺害後、4人はAの遺体を約5 m下の崖下に投げ捨てた[8]。犯行後の16日、現場では整地作業が行われており、土石や廃材がブルドーザーで崖下へ押し出されていたため、遺体はそれらの中に隠れる格好になっていた[8]。 Bを監禁かくしてAを殺害した4人は、車の中で待たせていたBの下へ引き返す途中で犯行の発覚を防止するため、Bを監禁することを共謀した[1]。4人は「彼女を連れてきてくれ」と頼まれたと嘘を言い、Bを乗せたAの車にSMとSSが乗り込んで発進させ、佐賀県のホテル「フレンド」(座標)[注 4]まで連行した[1]。そしてAから電話があったと騙してBをホテル室内へ連れ込み、15日2時ごろ、田本とY・SSは室内のベッドに座っていたBに背後から飛びつき、布団をかぶせてベッドの上に押さえつけ、「暴れたら腹打って気絶させるぞ。」などと言って反抗を抑圧した上で衣服を脱がせて全裸にし、SS・田本・Yの順にBを強姦した[27]。同日4時ごろ、田本らは強姦されたことにより畏怖状態にあったBに対し、逃走すれば自身やAの生命・身体に危害を加えられるかもしれないが、言われるがままにしていればAと会えるかのように誤信させて逃走を断念させた上で、25日に解放するまでBを福岡・久留米・東京・大阪・愛知・静岡・横須賀などへ連れ回した[28]。SSはBを長期間にわたって連れ回した理由について、仮にBを解放すればA殺害が発覚して逮捕されると思ったためであると述べている[29]。熊本地裁 (1988) の認定によれば、田本らは当初、Bも殺害するつもりで監禁していたとされる[30]。 同日夜、Bは実家に「友達の家に泊まる」と電話していたが、実際にはSMらと共に久留米市のホテルに入っていた[25]。これは田本らがBに電話をかけるよう命じたもので、田本らはこれ以外にもあちこちに電話をかけ続けており、捜査員はその行動理由について「殺害がバレていないか、探りを入れていたのでは」と評している[16]。16日から17日にかけ、田本らはBを連れて同市内の田本の知人宅に泊まり、18日21時に福岡市内で犯行に用いられた車両を返却、Aの外車に乗って東京方面へ向かい、同日夜は姫路や大阪のドライブイン、パチンコ店の駐車場などに駐車して睡眠を取った[25]。19日、田本らは愛知県のYの知人宅で金を借りようとしたが断られ、同日も車中泊した[25]。20日、田本らは静岡・横浜を経由して東京へ入り、21日まで都内のモテルに宿泊、22日は東京都八王子市の高尾山で時間を潰した後、高尾駅近くの友人宅に泊まった[25]。 その後も4人はBを連れ回しながら一緒に行動していたが、23日にSM以外の3人(田本・Y・SS)は警察の追及の手が迫っていることを感じ、SMにBの監視を託して相次いで姿を消した[28]。まず同日朝にYが姿を消し、田本とSSもBを連れたSMと別れ、SMはBとともに引き続き友人宅に残ったという[25]。SMは同月25日11時ごろ、Bに命じて彼女の実家に電話をかけさせ[22]、新横浜駅前でBを解放した[28]。このころ、Bは神奈川県横浜市内から実家へ「帰る交通費を送金してほしい」と連絡している[25]。捜査員はSMが最終的にBを解放した理由について、Aに続いてBも殺害することに躊躇があったためだろうと評している[16]。同日午後に「Bを保護、博多駅まで送る」という電話が入り[2]、Bは13時5分に東海道新幹線「ひかり203号」に乗車[25]、同日20時に博多駅に到着したところを捜査員に保護された[2]。 身代金要求一方で16日ごろ、田本らは身代金の受け渡し場所を下見した[28]。17日15時10分、SMは久留米市内から[29]「司グループ」本部事務所に電話をかけ、応対したAの父親を「お前の息子を誘拐した」「警察に言うと息子を殺すぞ」などと脅し、翌18日の18時に久留米市内の喫茶店まで身代金として5000万円を持って来るよう要求した[28]。しかし4人組からAの家族に対する接触はこの1回のみであり、『熊本日日新聞』の取材に応じた捜査員はその理由について、Bまで誘拐することになって計画が狂ったことや、電話に応対したAの父親が動揺したことから、それまで考えていた身代金奪取を断念したのだろうと考察している[13]。またこの時、田本が用意したメモをSMが読み上げる形で要求を伝えたが、電話を受けたAの父親は動転していたため、受け渡し時間が性格に伝わらなかったという[21]。 捜査脅迫電話を受けて30分後の17日15時30分、Aの父親は熊本県警察に事件を通報した[31]。同日17時、県警は169人体制の「玉名市における大学生身代金目的誘拐事件捜査本部」(本部長は県警刑事部長・前中幸弘)を設置し[31]、捜査一課内に対策本部を、所轄警察署である玉名警察署にも現地本部をそれぞれ設置した[25]。県警はA宅の電話に逆探知装置を設置して犯人からの2回目の電話を待ったが、その後も2回目の電話はかかってこなかった[2]。また、18日朝には身代金の受け渡し場所に指定された久留米市の喫茶店に捜査員70人を張り込ませたが[25]、犯人側からの接触はなく[2]、18時50分の閉店とともに同日の張り込みを打ち切った[31]。また翌19日も同様に張り込みを行ったが、同日も連絡はなかった[31]。 一方で熊本県警は21日、九州管区警察局を通してAの外車を手配し、22日には福岡県警察が久留米のホテルで、Aの外車と田本らが借りていたレンタカーが一緒だったことを突き止めた[25]。翌23日、熊本県警はAが事件に巻き込まれている疑いがあるとして、警察庁に正式に手配した[25]。 Bが保護された25日夜、Yは東京・新宿をうろついていたところで職務質問を受け、「玉名ででかいことをした」と話したため、警視庁は玉名署に照会した[2]。その結果、Bの供述からYがA誘拐事件に関与していることが判明したため、Yは26日5時50分に不法監禁容疑で警視庁に逮捕された[2]。またYの取り調べとBの証言から田本やSM・SSの存在が浮上し、県警などは立ち回り先などを探していたが、SMはY逮捕のニュースを見て「逃げ切れない」と思い、同日19時30分[32]もしくは20時に警視庁へ出頭、21時に逮捕監禁容疑で逮捕された[25]。県警は同日、田本とSSを全国に指名手配し[32]、またSMの自供に基づいて警視庁八王子警察署管内でAの白い外車を発見した[25]。一方でSSは同日、それまで共に行動していた田本と都内で別れたという[29]。 また県警はYやSMの供述に基づいてAの遺体を捜索し、同月27日16時20分、Aの遺体を発見した[8]。同月28日午後、SSは所持金がなく、逃げ切れないと思ったことや、父親から説得を受けたことなどを理由に警視庁へ出頭し、同日15時30分に逮捕された[22]。同月30日11時5分、最後まで逃走していた田本は東京都渋谷区内の知人宅に潜伏していたところ、県警からの連絡で警視庁に逮捕された[10]。田本ら4被疑者は同年10月2日までに、身代金目的誘拐、殺人、死体遺棄容疑で捜査本部に再逮捕され[33]、同月3日、それらの逮捕容疑で熊本地方検察庁へ追送検された[34]。 熊本地検は同年10月22日、田本ら4被疑者を身代金目的誘拐、殺人などの罪で熊本地方裁判所へ起訴した[21]。また同年11月10日、熊本地検はBに対する監禁罪などで4人を追起訴し、捜査終了を受けて県警は捜査本部を解散した[35]。 刑事裁判田本は身の代金目的拐取、殺人、拐取者身の代金要求、監禁、強姦の罪に問われた[36]。 第一審刑事裁判の第一審は熊本地方裁判所刑事第1部に係属し[28]、初公判から判決公判まで荒木勝己が裁判長を務めた[20][37]。第一審の初公判は1987年12月8日に開かれ、罪状認否で田本ら4被告人は起訴事実を全面的に認めたが、田本は自身が積極的に持ちかけたものではなく、4人全員で話し合って犯行におよんだと主張し、主犯性を否定した[20]。 同月21日の第2回公判では検察官によるSSへの被告人質問が行われ、SSは田本が誘拐計画を持ちかけたこと、また4人で殺害現場の小岱山を下見した際に田本から死体の隠し方について具体的な方法を提案されたことなどを挙げ、常に田本が計画の中心になっていたと証言した[38]。続く1988年(昭和63年)1月11日に開かれた第3回公判では、SSに対する弁護人の被告人質門と、SMに対する検察官・弁護人双方による被告人質問が行われ、2人はそれぞれ田本が計画段階から実行段階まで主導的に動いていたり、自身よりも15歳年上であるSMが犯行をやめさせようとしても「おっかないんじゃないの」と聞かず、かえってSMを引きずる形で犯行に加担させたりした、という旨を証言した[39]。同年2月2日の第4回公判では田本とYに対する被告人質問が行われ、田本は犯行計画は自身の主導ではなく、SMと2人で進めたものであると主張した一方、Yは田本が常に犯行計画を主導していたと述べた[17]。同年2月8日の第5回公判でも田本に対する被告人質問が行われ、田本は自身だけが主導的に動いたわけではなく、当初はSMと2人で犯行計画を練っていたところ、後にYやSSも積極的に加担するようになったことや、いったん東京の暴力団から勧誘されたことから計画をやめようとしたが、他の3人から煽られて実行することになったこと、そして取り調べ調書の内容とは異なり、自身が殺害を指示したわけではなく、自身に対する取り調べはそれ以前に調べが住んでいた3人の供述に合わせる形で行われたものであり、事実と異なる点も多いことなどを主張した[40]。同月22日の第6回公判では、田本は殺害方法などは当初から明確に計画していたわけではなく、成り行き任せな面もあったことなどを主張した一方、Aの母親が出廷し、犯人への極刑を求めた[41]。 同年3月1日の論告求刑公判で、検察官は田本に死刑、従犯であるSM・Y・SSの3人にいずれも無期懲役をそれぞれ求刑した[42]。同月15日の第8回公判で最終弁論が行われ、第一審の審理は結審した[43]。 1988年3月30日の判決公判で、熊本地裁(荒木勝己裁判長)は田本を死刑、SMを無期懲役、Yを懲役20年、SSを懲役18年とする第一審判決を言い渡した[37]。田本は事実誤認および量刑不当を、無期懲役を言い渡されたSMも量刑不当を理由として、それぞれ福岡高等裁判所へ控訴した[44][45]。一方で無期懲役を求刑されたものの、有期懲役刑を言い渡されたY・SSの2人について、熊本地検は控訴を検討したが[44]、田本やSMに比べて犯情に差があるとして、控訴期限の同年4月13日までに控訴を断念したため、それぞれ懲役20年と懲役18年の刑が確定した[46]。 控訴審田本とSMの控訴審は福岡高等裁判所刑事第1部に係属し[28]、初公判では丸山明が[47]、最終弁論公判および判決公判では前田一昭が裁判長を務めた[48][49][50]。また判決公判時の陪席裁判官は森岡安廣・林秀文である[50]。初公判は1989年(平成元年)1月24日に開かれ、被告人側は犯行は集団による異常心理の下で行われたものであり、原判決は死刑を廃止する世界の大勢に反しているなどという旨の控訴趣意書を提出、2被告人の兄弟らを証人として申請した[47]。 控訴審は1991年(平成3年)1月22日の公判で結審した[48]。田本の弁護人は、犯行は集団心理の中で行われたものであり、田本を主犯とした原判決は事実誤認であると主張した上で、死刑廃止は世界の潮流であると訴え、死刑判決の破棄を求めた[48]。またSMの弁護人も、SMは原判決が認定した「参謀格」ではなく、他の共犯者と比べて量刑が不当に重いと主張した[48]。 同年3月26日の判決公判で、福岡高裁(前田一昭裁判長)は田本ら2被告人の控訴を棄却する判決を言い渡した[49]。同日、福岡高裁は主文を後回しにしたが、閉廷間際に前田が主文を言い渡したところ、傍聴席にいた死刑廃止団体が「裁判所に人を殺す権利はない」などと叫び、法廷が騒然とする場面があった[49]。田本のみが上告し、SMは上告しなかった[28]。上告期限は同年4月9日。 上告審田本の上告審の弁論期日は当初、1997年(平成9年)7月に指定されたが、田本は同年6月に弁護人5人全員の解任届を提出し、新たに私選弁護人2人が選任された[51]。その後、新たに選任された弁護人の請求によって弁論期日は同年10月に延期されたが、その期日についても直前に再度の変更請求がなされ[51]、後に最高裁第一小法廷(遠藤光男裁判長)は公判期日を1998年(平成10年)1月29日に指定した[52]。しかし、田本はその直前の同年1月17日付で再び弁護人の解任届を提出、また解任届を提出された弁護人2人も自ら辞任届を提出したが、同小法廷はいずれも訴訟を遅延させる目的であるとして、弁護人の解任・辞任を無効とする決定を出した[52]。同決定は、1987年に言い渡された連続企業爆破事件の上告審判決(訴訟を遅延させる目的で提出された弁護人解任届は認められないという見解を示した判例)を踏襲したものだったが、弁護人の辞任届も含めて無効とした判断は極めて異例と報じられている[52]。また田本は裁判官忌避の申立ても行っていたが、同小法廷は同月27日付でこれを却下する決定を出した[53]。 このため29日の公判は予定通り開かれたが、弁護人は同日行われた口頭弁論で、同小法廷の決定に対し「解任と辞任は訴訟を遅らせる目的ではない。死刑に直面する者が防御を尽くそうとしているだけで、今回の措置は不当で違法だ」と主張したほか、原判決には重大な事実誤認がある(田本を主導者と認定した原判決は共犯者SMによる虚偽の供述に基づく判断である)点を主張し、原判決破棄を求めた[52]。一方で検察官は、田本は上告中の1996年(平成8年)12月に脱獄未遂事件(後述)を起こすなどしており、反省が認められないとして上告棄却を求めた[52]。 同年4月23日に上告審判決公判が開かれ、同小法廷は田本の上告を棄却する判決を言い渡した[54]。同年7月22日付で田本からの判決訂正申立を棄却する決定が出され[55]、同月24日付で死刑判決が確定した[56]。なお、田本はこの間の同年6月26日までに「春田」へ改姓しており[57]、後述の死刑執行時の姓も「春田」だった[3]。なお日本では仮釈放中に福岡県で母娘4人を殺傷(うち1人が死亡)した被告人の男に対し、第一審で言い渡されていた死刑判決が確定した1993年11月[注 5]以降、1998年4月まで殺害された被害者が1人の殺人・強盗殺人事件では1件も死刑が確定した事件はなかったと報じられている[63]。 上告審2002年(平成14年)9月18日、死刑確定者(死刑囚)となっていた田本は収監先の福岡拘置所(福岡市早良区)で死刑を執行された(36歳没)[3]。なお同日には名古屋拘置所でももう1人の死刑確定者が死刑を執行されているが、当時は死刑確定から執行までの期間は通常7、8年程度とされていた一方、田本ら2人はいずれも死刑確定から4年余りで死刑を執行されており[3]、当時は「異例のスピード執行」と言われていた[64]。 脱獄未遂事件田本は上告中の1994年(平成6年)6月、当時収監されていた福岡拘置所内を通る際の廊下での待機位置を巡って職員と口論になり、「職員に粗暴な言辞をした」との理由から15日間の「軽屏禁」(居室内での謹慎)と読書不可などの処分を受けた。この処分については福岡県弁護士会が死刑確定後の2000年(平成12年)6月30日付で、比較的軽い規律違反に対して過酷な懲戒処分を下されたなどとして、同拘置所長(当時)の佐々木英俊宛に「警告書及び要望書」を出している[65]。 1996年(平成8年)12月21日、当時収監されていた福岡拘置所の看守であった男Xから金切り鋸を渡され、鉄格子の一部を切断して脱獄しようとしたが、同日22時ごろ、別の看守に発見されて未遂に終わった[66]。 上告中の1996年12月、福岡拘置所に勾留中の田本が夜間、窓の鉄格子を切断しているのを看守が発見。実は田本が別の看守Aと共謀して脱獄を計画していたことが発覚する。TとAは年齢が近いことから友人のような間柄となり、Tが冗談交じりに脱獄計画をAに語っていたが、やがて親に一目会って必ず帰ってくるという田本の言葉を信じたAが金切りノコや現金3千円を渡していた。 看守が囚人の脱獄を援助するという前代未聞の事件の調査の過程で、関東地方の拘置所に長年勤務していたAが、家族の病気により帰郷し福岡拘置所勤務となり、看守同士の人間関係に悩んでいたことが判明。 この脱獄事件の内部調査中だった1997年2月21日13時50分ごろ、福岡拘置所長の男性(当時57歳)が鋏で左胸を数か所刺して所長室の床に倒れているところを職員に発見された後、早良区内の病院に搬送されたが、同日16時40分ごろ、付き添っていた妻が目を話した隙にベランダから約10 m下に飛び降りて自殺した[67]。には、当時の福岡拘置所所長が所長室で自殺未遂を起こし、病院に運ばれた直後に飛び降り自殺を遂げた。 Xは1997年(平成9年)3月14日付で、国家公務員法第82条に基づいて法務省から懲戒免職の処分を下され[68]、同月25日付で福岡地方裁判所へ起訴された[66]。法務省によれば、拘置所職員が被収容者の脱走を手助けしたとして罪に問われた事例は戦後初である[69]。Xは同年6月18日の論告求刑公判で懲役3年を求刑され[70]、同年7月16日の判決公判で、福岡地裁(照屋常信裁判長)から懲役2年6月の実刑判決を言い渡された[7][71]。また法務省は同判決直前の同月14日、福岡拘置所職員計12人に対し訓告、戒告、減給、厳重注意などの懲戒処分を下した[72]。その内訳は、最高責任者であった当時の福岡拘置所処遇部長ら4人が訓告、首席矯正処遇官ら2人が戒告、事件発生当夜の監督当直者が100分の1の減給1か月、夜勤監督看守部長が100分の3の減給3か月、3人が厳重注意、1人が注意である[72]。 なおこの事件では、田本も加重逃走未遂容疑で書類送検されたが、同年3月25日付で起訴猶予処分となった[66]。当時、法務省には死刑判決を受けた被告人が別の事件で起訴された事例は把握されていなかった一方、田本を起訴猶予とした場合、脱走を幇助したXとの公平を欠く問題があるが、このような処分となった理由について土本武司は、「死刑を執行すべき死刑を執行すべきときは、没収を除き、他の刑を執行せず」とする刑法第51条の規定の存在を指摘し、福岡地検は田本に死刑以外の刑が執行されないならば、田本を起訴する必要はないと判断したのではないかと評しており、福岡地検も田本が死刑判決を受けたことを考慮したかについては否定しなかった[66]。田本(春田)はこの処分を不当として、1998年6月26日までに福岡検察審査会に対し、自らを起訴するよう求める申し立てを行った[57]。不起訴処分となった本人が検察審査会へ自身の起訴を求める申し立てを行ったことは極めて異例であり、田本はこの申立で、逃走未遂事件は自分に仕掛けられた罠であり、逃走の動機などを法廷で証言するつもりだったが、検察が真相究明による混乱を恐れて不起訴にしたためにその機会を奪われ、誘拐殺人事件の審理にも悪影響を与えたと主張し、また「罪に問われない場合、その当事者は喜ぶのだろうが、(私は)納得いかない。裁判を受けさせてください」と訴えていた[57]。しかし福岡検察審査会は同年10月22日付で[73]、田本は申立権者[注 6]に該当しないとして彼の訴えを却下した[75]。また同審査会はこの不起訴処分の相当性を職権で調査していたが、そちらについても「不起訴相当」の議決を行っている[75]。 事件後『週刊文春』によれば、被害者遺族であるAの実家は事件後もさらに事業を拡大し[注 7]、事件から10年となる1997年時点では熊本県内でも有数の高額納税者になっていたため、地元では田本家の話題を口に出す者はほとんどいなくなっていたという[注 8]。一方、田本の父親は息子が殺人事件を起こしたころには暴力団を離れ、妻とも離婚しており、1994年(平成6年)ごろに肝硬変で死去した[84]。 第一審で熊本地裁の裁判長として事件の審理を担当した荒木勝己は、2009年(平成21年)に『読売新聞』の取材に応じた際、身代金目的の誘拐殺人という点を重視して田本を死刑とすることを選択したものの、田本は捜査段階や公判で反省の言葉を口にし、写経も行って被害者の冥福を祈っていたことから、控訴審判決後も「死刑を回避することはできなかったか」という思いが捨てきれずにいたが、田本が上告中に起こした脱獄未遂事件で福岡拘置所長が自殺したことを知り、「結果として、彼〔田本〕は2人の命を奪ったことになる。やはり極刑という結論は間違っていなかった」と考えるようになったという[85]。一方で翌2010年(平成22年)に同紙の取材に応じた際には、判決には後悔はないが、時折「更生の可能性は本当になかったか」という思いが沸き起こることがあったと述べている[86]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク仙台老夫婦殺害事件仙台老夫婦殺害事件(強盗殺人、死体遺棄被告事件)で最高裁判所第二小法廷(大西勝也裁判長、藤島昭・中島敏次郎・木崎良平)は1993年5月31日付で、刑事訴訟法第414条、404条、314条1項本文により、被告人が心神喪失の状態にあるものと認め、公判手続を停止する決定を出した[1]。その後、最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長、根岸重治、・河合伸一・福田博)は1998年3月17日付で、被告人が心神喪失の状態でなくなったと認め、先の公判手続停止決定を取り消す決定を出した[2]。 脚注注釈出典参考文献関連項目[[Category:]] 中日ドラゴンズのファン下書き:中日ドラゴンズのファン 中日ドラゴンズのファン(ちゅうにちドラゴンズのファン)は、日本のプロ野球球団である中日ドラゴンズを支持・応援するファンのことである。中日ファン[1]やドラゴンズファンとも略され[2][3]、またドラファン[4][5]、竜党[6]、ドラ党[7]、ドラキチ[注 1][3][9][10]、D党[11]などと呼称される場合もある。以下では、基本的に「中日ファン」で統一する。 分布中日ドラゴンズは1936年(昭和11年)に名古屋軍としてプロ野球に参戦して以降、2022年(令和4年)時点で86年間にわたって名古屋を本拠地として活動しているチームであるが、東海圏では唯一のプロ野球チームであり、かつ最も歴史のあるプロスポーツチームである[12]。 愛知県・岐阜県・三重県の東海3県と静岡県西部(旧遠江国)に熱狂的な中日ファンが多いとされる[13]。Jタウンネット編集部が2017年に全47都道府県それぞれで最も人気のある球団を調査を行った結果、中日が最も人気だった都道府県は愛知・岐阜・三重・静岡の東海地方4県だった[14]。岐阜県は圧倒的に中日ファンが多い土地柄であると報じられている[15]。 三重県を放送区域とするUHFテレビ局の三重テレビは中日戦を中心とした野球中継番組を放送しているが、放送エリア外の愛知県東三河地方でもこの三重テレビのスピルオーバー電波を受信するため、高いところにテレビ電波受信アンテナを設置する家庭があるという[16]。なお、三重県については中日ファンだけでなく阪神タイガースのファンや大阪近鉄バファローズのファンも入り乱れているという報道や[17]、伊勢地域では中日ファンだけでなく、地元出身の沢村栄治や西村幸生の影響からか、読売ジャイアンツ(巨人)や阪神のファンも多いという報道もあった[18]。 関西に接する三重県上野市(現:伊賀市)は中日ファンだけでなく、阪神ファンも多いと報じられている[19]。静岡県浜松市は、中日ファンも巨人ファンも多い土地柄であると報じられている[20]。また飯田市を中心とした長野県の南信地方も名古屋市の商圏であるため、中日ファンが多いとされる[21]。 北陸地方の富山県では複数回にわたり主催試合を開催した実績があるが[22]、富山県は巨人ファンが多いとされており[23][24][25]、中日ファンは少数派とされている[26]。 勢力『朝日新聞』は1988年8月時点で、名古屋ではプロ野球ファンの約7割が中日ファンであり、電話帳でも「ドラゴンズ」「りゅう」「竜」などが頭につく喫茶店・飲食店などが約70軒確認できると報じている[3]。三菱UFJリサーチ&コンサルティングとマクロミルが2024年に実施した「2024年スポーツマーケティング基礎調査」の結果から算出された「球団別プロ野球ファン人口推計」によれば、日本国内の15歳から69歳のプロ野球ファンの総数は2210万人と推計されているが、中日ファンの推計人口は208万人で、これは阪神ファン(推計ファン人口415万人)、巨人ファン(同369万人)、福岡ソフトバンクホークスのファン(同240万人)に次ぎ、12球団の中で4番目に多い[27]。2024年のNPB全12球団の公式戦入場者数では、中日の主催試合入場者数は2339541人(71試合)、1試合平均では32951人であり、これらはいずれも阪神、巨人、ソフトバンクに次ぐ12球団中4位である[28]。なお2005年5月に『朝日新聞』が行った世論調査の結果によれば、各地域別の「好きなプロ野球チーム」として「中日」を挙げた投票者の割合は「東海」で12球団中1位となる44%(2位は巨人の16%、3位は阪神の10%)だった一方、それ以外の地域(北海道、東北、関東、甲信越・北陸、近畿、中国・四国、九州)で中日が上位3位以内に入っていた地域は「甲信越・北陸」のみだった。同地域では巨人が1位(34%)、阪神が2位(13%)で、中日は3位(6%)だった。また「セ・パ両リーグ計12球団のうち、好きな球団を一つだけあげてください」という設問では、中日の割合は8%で、これは巨人(23%)、阪神(17%)に次ぐ3位だった[29]。 巨人ファンは全国的には多数派であるが、名古屋では少数派であると評されていた[9]。石井桂治 (1986) は、名古屋では中日以外の球団のファンを認めようとしないという風潮があり、巨人ファンは肩身の狭い思いをする一方、岐阜県山間部では名古屋とは違い、中日ファンだけでなく巨人ファンでも特に圧力は感じなかったと述べている[30]。中日の優勝が間近に迫った1988年10月、ヤクルトスワローズの応援団「ナゴヤツバメ軍団」代表は『朝日新聞』記者・田中彰の取材に対し、名古屋での応援は中日ファンの熱気に押されて勝負にならないと述べている[9]。 東海圏に通う大学生のいる家庭では、家族内に中日ファンがいる大学生の方が、そうでない家庭に比べて家庭内のコミュニケーション頻度が多いと評されている[31]。 特徴1961年の時点で「中日ファンが熱狂的であることは全国でも有名である。」と言及されている[32]。また中日ファンの多くは地元の者であるとされている[33]。 1982年時点では、プロ野球12球団のファンの中でも中日と広島東洋カープのファンが特に熱狂的であると報じられている[34][35]。1988年時点では、セ・リーグ最下位に低迷していた開幕直後からオールスターゲーム前までは主力選手である落合博満の家に石が投げ込まれたり、深夜に酔っ払ったファンが傘で門扉をつついて「カネ返せ、ドロボー」と暴言を吐いたりするような出来事があった一方、リーグ優勝を目前に控えたシーズン終盤には一転して落合宅に差し入れするファンが多数いたとも報じられている[9]。 また中日ファンの巨人はアンチ巨人であると評されている[30]。 名古屋の老舗百貨店である松坂屋の社長で、中日ファンを自認する鈴木正雄は、地元のチームである中日を「応援するのが当然」という風潮があると述べた上で、中日ファンの気質については「郷土愛が強いがゆえに、負けると歯がゆくて悪口雑言を浴びせてしまうんだろうな」と評している[9]。名古屋大学の名誉教授で、1988年当時の監督であった星野仙一を現役選手の新人時代から支援していた「星の会」会長・山田鐐一は「名古屋で中日を応援するのは、オリンピックで日本選手を応援するみたいなもの」と評している[9]。 事件・トラブルなど1962年(昭和37年)5月29日に中日スタヂアム(現:ナゴヤ球場)で開催された中日対巨人8回戦終了後、中日が逆転負けした腹いせに中日ファンの群衆が巨人の選手たちを乗せたチャーターの名鉄バスを取り囲み、石などを投げつけてバスの後部ガラスやフロントガラスなど3枚を割る事件を起こした。中川警察署は拳でガラスを叩き割った男1人を逮捕したが、「巨人軍選手が〔バスを取り囲んだ人物を〕バスの中へ引きずりこんで暴力をふるっているのを見た」という目撃証言もあったため、同署は巨人の関係者からも事情聴取した[36]。 1982年(昭和57年)10月24日にナゴヤ球場で開催された中日対西武ライオンズの日本シリーズ第2戦では、暴徒化した中日ファンが観客席から西武の選手めがけてビールなど酒の瓶も含めた物を投げつけてプレーを妨害したり、敗色濃厚となった試合終盤には「オレは広岡(西武監督)を絶対に殴る」「バスをぶっこわしてやる」という中日ファンの怒号が聞こえたり、試合終了後には実際に祝派に変える西部の選手たちが乗ったバスが投石を受け、フロントガラスを割られる被害に遭ったりといった出来事があった[35]。 中日ファンの著名人
脚注注釈出典
参考文献
関連項目
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脚注注釈出典参考文献関連項目
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脚注注釈出典参考文献関連項目
大牟田港下書き:大牟田港 大牟田港(おおむたこう)は、福岡県大牟田市西新町にある港湾である[1]。東経130度26分、北緯33度2分の大牟田川河口に位置する港である[2]。市の北部を流れ、有明海に注ぐ大牟田川[注 1]の河口に位置している(座標)[7][8]。同じ市内の三池港からは北方約2.5 kmに位置し[9]、重要港湾にして有明海では唯一の貿易港である三池港の補助的な役割を有していると評されている[10]。港湾管理者は福岡県である[11]。港湾法上の地方港湾に指定されている[11]。 港湾区域面積は1201 ha、臨港地区面積は11 ha[11]。 明治以前は寂れた漁港だったが、三池炭鉱で算出される石炭の搬出、そして日常生活物資の移入拠点として活気を増していった[12]。明治42年までは三池石炭の唯一の積出港として、港の浚渫や小ドック建造によって増大する取扱貨物量に対応してきたが、それでも対処しきれず、最終的には三池港を整備することとなった[12]。明治42年頃までには鉄道桟橋、船積桟橋が整備されていた[12]。大正3年時点では三池炭鉱所有の船が90艘以上、また個人所有の大小の運送船255艘があり、運送業組合もあった[12]。 明治13年に第1水門が整備されたが、明治23年に廃止され、後に設置された第2・第3水門も風波のため破損し、消滅した。昭和11年からは年々増加する利用機帆船に対処するため、三井鉱山の公有水面埋め立て地のうち81974坪を港域として工費39万5000円を投じ、修築工事を行ったが、戦争による資材難、諸物価高騰、空襲などのため、未完成のまま放置された。[2] 明治6年の三池炭鉱官収以来、石炭の積出港として整備され、三池炭鉱の経営が三井資本に移行してからは石炭の産出量が増加したことから、三井は新たに三池港を築港、それ以降は石炭の積み出しは三池港に集中、大牟田港は市内で発展してきた石炭化学工業や金属(亜鉛)精錬業の原材料製品の移出入を中心に運用されてきた。1952年には地方港湾に指定され、同年以降は福岡県が管理者となった。1973年からは航路や泊地に堆積したヘドロの浚渫や封じ込めの工事が行われ、1980年に完成した[13]。大牟田港の泊地には大牟田川の上流域にある工場群(三井東圧化学、三井金属など6社)から流出した多量の重金属類が蓄積しており、そのヘドロの深さが約5mに達していたため、拡散による二次汚染を防止するため、28億6200万円(うち79.29%を6社が負担)の工事費を投じて埋め立て、ヘドロを封じ込めることとなった。この埋め立てにより、旧泊地(約10万平方メートル)の先の埋め立て地に新たな泊地(約3万平方メートル)が造成され、新たな荷揚げ岸壁(延長666m)などの代替施設が整備された一方、旧泊地は埋め立てられ、1980年春に公園緑地となった[14]。 三井三池炭鉱から産出される石炭などの積み出しのために築造された港である。外国との貿易や大型船による輸送などは同じ市内の三池港で行われていた一方、機帆船および中型船による国内海運はほとんどが大牟田港で行われていた[15]。 大牟田港を含む大牟田川はかつて、工場排水による水銀・カドミウムなどの重金属汚染が深刻であったことから「七色の川」と呼ばれた。そのため福岡県は1973年度から3年間に渡って河口の大牟田港を含む川底の汚泥を浚渫し、川の延長約3.5 kmにわたってコンクリート三面張りの工事をした[16]。大牟田川と大牟田港に堆積していた水銀・カドミウムなどの有害汚泥は1975年(昭和50年)8月までに浚渫を行ったが、大牟田港泊地は浚渫せず、泊地内に封じ込める形で処分することになり、公害防止事業費事業者負担法適用事業の「大牟田港泊地有害物質等含有堆積汚泥封じ込め事業」として1977年3月に着工された。同事業は大牟田港泊地を締め切り、ボタや山土などの覆土(覆土面積10万平方メートル)によって埋め立てることで、有害物質の含有された汚泥を封じ込めるものであり、公害防止事業費は28億6200万円、うち事業者負担総額は22億6928万円に及んだ[17]。浚渫によって発生した汚泥は大牟田港の浚渫土と合わせて約42万8000 m3に及ぶが、これらの汚泥は高濃度の水銀、カドミウム、ヒ素などで汚染されており、1973年から1975年にかけ、大牟田市健老町の有明海と堂面川に面した一画(約10 ha、三井鉱山の所有地)に埋められた[18]。大牟田川(航路部)の浚渫は公害防止対策事業第1期工事として1975年に行われ、1977年からは第2期工事として泊地部を鋼天板で締め切り、堆積汚泥を山土などで埋め立てる工事が開始された。一方でこの工事により、既存施設が機能を喪失したため、その代替として航路沿いに新たな泊地・物揚場・野積場などの施設が建設された[19]。大牟田川の浚渫作業は1974年度から1975年度の4月から8月(海苔養殖期間外)に行われ、大牟田港泊地の覆土埋め立ては1976年度から1981年度まで6年間にわたって行われた[20]。当初は1977年度からの3カ年計画で、1977年度は工費約10億円を投じ、大牟田港西側の大牟田川河口にあった元三井鉱山所有地のボタ捨て場(延長540m、幅60m)を掘削してボタ(総体積71000立方メートル)を除去、200 - 300t級の貨物船などが停泊できる規模の新泊地(船舶係留施設、荷上場、道路など)を建設[注 2]、1978年度には旧泊地北側の大牟田川沿いにあった既設の係留施設・荷揚場などの補強・整備を行った後、1979年度に三井鉱山から出たボタで旧泊地を全面的に埋め立てるという計画だった[21]。 それまでの泊地の代替となる新泊地を建設した。 大牟田川を含む大牟田市内の河川の類型指定は1970年9月1日に行われ、大牟田川については1975年8月25日に見直しがなされた。同日、大牟田川港湾区域の類型指定が行われた[22]。1982年の取扱貨物量は、三池港が輸移出471万トン、輸移入129万トンで、大牟田港は移出13万トン、移入54万トンだった[23]。 三池港は大牟田市新港町にある重要港湾で、大牟田市の南部に位置し、有明海に面する。三井鉱山が海上石炭輸送ルートの効率化を図るため、石炭積出港として明治35年に築港工事に着手、6年後の明治41年3月に竣工、同年4月には開港場に指定された。かつては三井鉱山の私港で、1971年に福岡県の管理に移行したが、それ以降も港湾施設は三井鉱山三池港務所が所有し、実際上の管理運営も行っている[24]。 脚注注釈出典
参考文献関連項目音江村一家8人殺害事件…札幌高裁で無罪確定とする記事[1]、最高裁で無罪確定とする記事がある[2]。 脚注注釈出典参考文献関連項目 |
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