利用者:要塞騎士/sandbox/9
下書き:由美子ちゃん誘拐殺人事件
由美子ちゃん誘拐殺人事件(ゆみこちゃんゆうかいさつじんじけん)とは、1970年(昭和45年)2月23日に富山県富山市で、当時6歳の女児(幼稚園児)が殺害された誘拐殺人事件である[5]。由美子ちゃん事件[5][6]、富山の由美子ちゃん事件とも呼ばれる[6]。 事件当時、富山県民を恐怖に陥れた[6]。犯人は本事件当時、長崎・岡山の両県警から指名手配されていたが、偶然足を伸ばした富山県内で犯行におよび、その後も逮捕まで約1年半にわたり、日本各地で犯行を重ね続けていた[7]。そのため、富山県警察は同種事件に対処するため、初動捜査体制の強化を図り、1971年(昭和46年)4月に機動捜査隊を新設した[8]。また、富山県では本事件をきっかけに、犯罪や事故の誘因を取り除き、環境衛生の向上を図ることを目的に、富山市など複数の自治体で「あき地の環境保全に関する条例」が相次いで制定された[注 3][9]。 富山県内で発生した死刑確定事件は、本事件が戦後2件目である[注 4][10]。 当時、誘拐事件はわいせつ目的で、小学生以下の女児を襲うケースが激増していた[注 5][13]。警察庁によれば、同年に発生した誘拐事件は4件目で、被害者が殺害された事例は初めてだった[注 6][13]。なお、日本新聞協会は1970年2月5日、誘拐事件の報道協定に関する現行の方針(「誘拐事件などの発生時、捜査機関側と報道機関側が話し合って報道協定を締結するか否かを決める」という主旨)を決定したが[14]、本事件はその方針に則って報道協定が締結された初の事例である[15][16]。 犯人T本事件の犯人である男T・O(以下「T」)は、1943年(昭和18年)11月7日、旧満州国四平省四平市(現:中華人民共和国吉林省四平市)で、南満州鉄道株式会社の社員だった父親(H姓)と、その妻の間に次男として生まれた[17](事件当時26歳)。本籍地は島根県八束郡玉湯町大谷(現:松江市玉湯町大谷)[18]。当時は27歳、無職で前科1犯だった[19]。 生後間もなく、父方の祖母(岡山県倉敷市在住)の手元で養育されたが、1945年(昭和20年)10月、終戦により引き揚げてきた両親に引き取られ、他の兄弟とともに成長した[17]。その後、父の転勤に伴い倉敷市立中庄小学校から岡山市立福島小学校へ転校し、1959年(昭和34年)3月、岡山市立福浜小学校を卒業した[17]。学業成績は中程度で、両親や担任教師からは進学を勧められたが、T自身は就職を希望し、同年4月、岡山職業訓練所へ入学すると、アセチレン溶接やアーク溶接の資格を取得した[20]。1960年(昭和35年)3月、水島工業所(倉敷市)に溶接工として就職したが、2か月ほどで辞め、その後就職した岡山市内の会社もわずか4か月ほどで退職した[21]。 その後、しばらく両親のもとで無為の生活を送る間、親戚から金銭を盗み、家庭裁判所の審判を受けたことから、天理教の信者であった祖母の勧めに従って天理教岡山大教会修養科生となり、3か月あまり教えを受けた[21]。しかし、その後も職を転々とし続け[注 7]、それを苦にしたTの母親は、1964年(昭和39年)5月22日に入水自殺している[21]。母の死に大きな衝撃を受けたTは、父の再婚相手(継母)に馴染まず反抗的態度を示すようになった一方、雑誌『明星』の文通欄を通じて知り合った女性と、岡山市内のアパートで約2か月ほど同棲し、1967年(昭和42年)9月6日に結婚[注 8][21]。同時に、Tは妻の父(T姓)と養子縁組したが、その間も職は定まらず、職を転々とし続けた[注 9][21]。 1968年(昭和43年)8月10日には長男が誕生したが、その後、妻が精神病で入院したり、厳格な養父との折り合いが悪かったことなどの理由で、Tは養家を飛び出し、富山工場への転勤を経て岡山工場へ転勤していた両親や、祖母のもとで無為徒食の生活を送るようになった[22]。この頃から、妻のものを勝手に質入れしたり、窃盗を重ねたりするようになり、1969年(昭和44年)1月28日には岡山簡易裁判所で窃盗罪により、懲役1年の実刑判決を受け、岡山刑務所に服役している[23]。同年9月16日に仮出獄して以降は、祖母のもとで叔父の健康飲料配達を3週間ほど手伝った後、実父の元へ戻ったが、その2、3日後には黙って父の家を飛び出し、好きな城を見物しながら岡山、四国、山陰、九州、広島、彦根などの各地を転々と放浪して歩いていた[23]。そのような生活の間、金銭に窮したTは、同年10月25日 - 1970年2月19日の間、14回にわたって岡山県総社市の民家など13か所から金品(合計約20万4,309円)を盗んでいる(X1事件)[23]。 事件の経緯A殺害事件1970年2月21日、富山県に入ったTは小川温泉で一泊し、翌22日には富山駅前の旅館に「山根」の偽名で投宿した[23]。しかし、相変わらず金銭に窮していたため、翌23日8時ごろ、盗みのために旅館を出て、駅の食堂で朝食を摂ると、持っていた荷物を駅に預けた上で、9時45分ごろ、富山港線[注 10]でかつて住んでいたことのある蓮町駅で下車[23]。同日10時30分 - 14時10分ごろにかけ、富山市蓮町や同市森字高畠町で、民家3軒や会社の寮2軒に相次いで侵入し、ウイスキー1本(時価1,000円相当)、現金約60円などを盗んだ(X2事件)[24]。Tは当時、放浪生活中で禁欲を余儀なくされていたが、この時に侵入した民家2軒で金品を物色していたところ、見つけたわいせつ写真に刺激され、性的興奮を覚えた[2]。また、この間に侵入した建物から盗んだウイスキー少々やビール(大瓶1本)を飲んでいた[2]。 Tはその後も引き続き次の侵入先を物色し、付近を歩き回っていたが、同日15時すぎごろ、森字高畠町621番地付近の道路で、本事件の被害者である女児A(当時6歳[2]:富山市岩瀬高畠2区[25])[注 1]を見つけた[2]。Aは失踪する直前の同日16時ごろ、自宅から約50 m離れた小川に架かる「高畠橋」で1人佇んでいる姿を、近隣に住んでいた小学生に目撃されている[1]。 Tは直前にわいせつ写真を見て刺激されていたことや、飲酒の影響によって抑制力が弛緩していたことが相まって、Aを強姦しようと企てた[2]。TはAに道を尋ねるように装い、言葉巧みに話しかけながら一緒に歩くと、機を見てAを小脇に抱え込み、近くの民家(当時は留守)の物置に連れ込んだ[26]。しかし、Aが泣き叫んだため、TはAを仰向けに押し倒すと、首を両手で絞めて失神させ、口の奥深くにハンカチを押し込み、声が出ないようにさせた[27]。そして、気を失ったAを全裸にすると、自身も下半身裸になり、Aの上に馬乗りになって姦淫行為を始めたが、途中でAがうめき声を上げて気づく気配を示したため、Tは強姦目的を果たすことと、犯行の発覚を防ぐことを目的に、Aの殺害を決意[27]。再びAの首を両手で絞め、持っていた刃物でAの前胸右側下端部を突き刺し[注 11]、Aを殺害した(死因は窒息死)[27]。 TはAの死体を隠すため、物置にあった空段ボール箱に、Aの死体と衣類などを詰め込むと、いったん物置を出て自転車を探し出した[27]。そして、自転車に段ボール箱を積んで、物置から約800 m南東に位置する住友金属工業の工場跡地(富山市森50番地)まで運び、17時ごろに死体を放置して逃走した[27]。16時30分ごろには、「高畠橋」から約150 m離れた昭和電工の社員寮「愛日荘」前のT字路突き当りで、茶色っぽい背広を着た若い男(27 - 28歳)が、段ボール箱を後ろに積んだ自転車を押していたところを、近隣に住んでいた小学生が目撃していたが、この男が石につまずいて自転車を倒したところ、箱の蓋が外れ、(小学生に)箱の中から頭の毛らしいものと赤い色の衣服が見え、男はそのまま来た方向へ引き返していった[1]。 事件後の余罪事件後の同年3月8日夜、Tは倉敷市中庄の民家(当時、家人は留守)に空き巣目的で侵入し、炊事場からビーフン1袋とみつ豆缶詰1個など(計約108円相当)を盗み、それを飲み食いしながら泊まり込んでいたが、同日23時30分ごろ、同家に留守居していた男性(当時21歳)に遭遇[27]。逮捕を免れるため、取り押さえようとしてきた男性に対し、持っていた日本刀(刃渡り約52 cm)を突き出すなどの暴行を加え、揉み合いになった際、男性の左手薬指に全治約3週間の怪我(腱切断)を負わせた(X3事件)[28]。 同年4月18日0時50分ごろ、Tは長崎県諫早市西栄田町の民家に、家人不在とみて空き巣目的で侵入したが、家の中で就寝していた女性(当時34歳)に気づかれたため、起きようとした女性を「金を出せ」「命が惜しかったら静かにしろ」と脅迫[29]。現金10,200円を奪うと、服を脱がせ、女性を強姦した上で、さらに6,300円(併せて16,500円)を奪った(X4事件)[29]。さらに同月23日14時ごろには、山口県萩市大字椿東の民家に侵入したが、金品を物色していたところ、家人の次女B(当時14歳)が帰宅してきた気配を察知したため、Bを背後から襲って口をふさぐと、抵抗するBを押し倒し、首を絞めつけて失神させた[29]。その際、劣情を催したことから、Bの着衣を切断したり、下着を引き外した上でBを強姦し、処女膜裂傷と前頸部への擦り傷(全治約5日間)を負わせた(X5事件)[29]。 これらの犯罪のほか、Tは逃亡のため各地を放浪している間(1970年2月25日 - 1971年5月中旬)、金銭に窮したことから、倉敷市の民家など12か所で、13回にわたって窃盗事件(被害額は計約24万2,650円相当)を盗んだ(X6事件)[30]。本事件後の余罪は、窃盗29件、住居侵入と強盗強姦が各2件[注 12]、強盗致傷・銃刀法違反・窃盗未遂が各1件で[31]、犯行範囲は中国・九州地方を中心に[32]、北は北海道から南は九州まで広域におよぶものだった[33]。結果、Tは本事件(強姦致死・殺人・死体遺棄)[31]とは別に、以下の罪状でも追起訴されることとなった。
捜査事件発覚23日19時ごろ、Aの親が富山北警察署[注 2]に対し、「長女 (A) が遊びに行ったまま帰宅しない。捜査してほしい」と届け出た[1]。これを受け、同署はA宅周辺の用水路・運河・空き地などを捜索したが、発見できなかったため、翌日(2月24日)午前、Aが誘拐されたものとみて、捜査本部を設置し、本格的な捜査を開始した[1]。同本部が近隣に住んでいた小学生たちの目撃証言を元に、捜査員90人を投入して付近一帯を捜索したところ、同日14時50分ごろ、富山市住友町の住友金属工場跡地(A宅から約1 km離れた地点)で、段ボール箱の中に入ったAの白いブーツと赤いセーター、そして多量の血痕が付着した白丸首シャツを発見[1]。同日17時10分ごろ、段ボール箱が発見された地点から約100 m先の草原で、Aの扼殺死体が発見された[1]。 死体発見を受け、富山北署は富山県警察本部の応援を受け、「由美子ちゃん誘かい殺人事件特別捜査本部」を設置[1]。目撃証言から、犯人像を「25 - 30歳程度の若い変態性のある男で、土地勘のある人物[注 13]」と断定し、変質者専門の専従捜査員40人を投入した[1]。 被害者の葬儀(26日)には、東京の吉展ちゃん誘拐殺人事件の遺族や、山口県の久恵ちゃん誘拐殺人事件の遺族らからの弔電も多く寄せられていた[34]。 解決1971年6月23日、富山地方裁判所(佐野久美子裁判官)は被疑者Tの勾留場所を富山刑務所に指定したが、それに対し富山地方検察庁の検察官・藤坂亮が準抗告を申し立てた[35]。これを受け、同地裁は「本件の場合、勾留場所を富山警察署と指定する特段の事由は認めがたいが、被疑者が現に取調べを受けている富山北警察署[注 2]の留置場と指定するのが妥当であると思料されるから、結局原裁判中勾留場所を富山刑務所とした点は相当性を欠いているものというべきである。」として[36]、勾留場所を富山北署に指定し直す決定を出した[35]。その決定理由は、以下の通りである。
富山地検は1971年7月12日、殺人などの罪状で被疑者Tを富山地裁に起訴した[37]。また、同年9月8日 - 1972年8月19日にかけ、各種余罪でも追起訴された(#事件後の余罪を参照)。 刑事裁判1971年9月14日に富山地裁で第一審の初公判が開かれ、被告人Tは罪状を認めた[38]。この初公判を含め、判決公判までに7回の公判が開かれた[39]。 1973年(昭和48年)2月13日に論告求刑公判が開かれ、富山地検の藤坂亮次席検事は「犯行は残虐で、反省の意思もない」として、被告人Tに死刑を求刑した[40]。 同年3月29日、富山地裁(木村幸男裁判長)は被告人Tに無期懲役(求刑:死刑)の判決を言い渡した[6]。同日、富山地裁 (1973) は主文に先立って示した判決理由で[41]、「犯行は極悪非道で、社会的影響も重大だが、被告人の反社会的性格は恵まれぬ成育環境にも原因がある」[25]「凶悪な犯行だが、殺意は偶発的なものと認められる。社会から抹殺するよりも、被害者の冥福を祈り、罪の償いをするべきだ」と判示した[32]。富山地検は同年4月11日、「犯行は凶悪・非道で、矯正など同情すべき余地はない」として、名古屋高等裁判所金沢支部へ控訴した[注 14][42]。 同年8月30日、名古屋高裁金沢支部(沢田哲夫裁判長)は原判決を破棄自判し、被告人Tに死刑判決を言い渡した[43][25]。名古屋高裁金沢支部 (1973) は、「無抵抗な幼女を残忍な方法で殺害、獣欲の対象にした上、死体をゴミのように捨てた犯行は許せない。事件後も数々の凶悪犯罪を重ねており、極刑は免れない」と判示した[25]。名古屋高裁金沢支部が、富山地裁で言い渡された無期懲役の原判決を破棄し、死刑を言い渡した事例は、これが戦後初だった[43]。 Tは同判決を不服として、同年9月10日付で最高裁判所へ上告したが[44][45]、同年10月18日付で自ら上告を取り下げ[46]、死刑が確定した[47]。死刑囚(死刑確定者)となったTは、身柄を金沢拘置所から名古屋拘置所に移され[47]、1977年(昭和52年)に名古屋拘置所で死刑を執行されている[48]。 脚注注釈
脚注
参考文献勾留場所の指定に対する準抗告
『刑事裁判資料』第216号(第一審および控訴審の判決文を収録)
書籍
関連項目 |
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