利用者:As6022014
歴史を創ってきたのは人である。その人を動かしてきたのはカネである。 化学、地球物理学、地理、貨幣関連の記事を中心に編集していますが、そもそも「貨幣」とは何ぞや?と聞かれても実態はよく判りません。貨幣の定義など経済学者の数ぐらいあるといいますから。三上隆三『江戸の貨幣物語』 本来、理工系の人間で歴史および経済については素人同然です。さらにミスも多く、気付けば訂正もしていますが皆様のご協力をお願いします。記事も理系に偏った内容になっている嫌いがありますので、皆様の編集をお待ちしています。 時々旅に出て、質問などを受けてもすぐに返答できない時期もありますのでご了承ください。 ウィキメディア・コモンズアップロード用アカウント現在、編集に力を入れている分野主に無機化学分野 化学熱力学 山岳関連 地理関連 出典に関する私の考え![]() Wikipediaで出典を示すことが最重要の方針の一つであることはもはや述べるまでも無い。 出典が記事の信頼性を担保するという面もあろう。しかし私は、百科事典の記事は百貨店のテナントのようなものであり、記事自身は出典すなわち原典に何が述べられているかを抄録したものであって、閲覧者がさらに知識を深めたいと考える場合はさらに専門店である原典を参照することになる、これが理想の姿と考えます。 記事の記述は本来出典に忠実であるべきであるが、記事の執筆において誰しも誤記はあるし、誤解、思い込みが入り込む余地を完全に払拭することは出来ない。時に恣意的に成る事だってあり得る。だから調べ物において可能な限り原典に遡ることは重要であると思う。 2011年4月25日、こんな報道があった。
これだけ見れば、2000年前の地震は宝永地震の3倍余の高さの津波で、東北地方太平洋沖地震の津波は宝永地震の半分以下でしかなかったような印象さえ受ける。2012年に示された南海トラフの巨大地震モデル検討会による、新たな想定さえ頷けるように思える。 しかし一ヵ月後の岡村眞教授の日本地球惑星科学連合2011年大会の公演要旨は以下のようなものであった。宝永地震の津波堆積物の厚さが約50cmとあり近くの宇佐で高さ10m以上、2000年前の津波堆積物はこれを上回り粗粒なものとある。津波遡上高については今村明恒が宇佐で15.7m(潮ハ橋田ノ奥宇佐坂ノ麓萩谷口迄『谷陵記』)、都司嘉宣が青龍寺で25m(青龍寺客殿斗残、蟹ガ池海ニ没ス『谷陵記』)と推定しているからそうなのだろう。一方で、東北地方太平洋沖地震の津波堆積物は報道では何処のサンプルかも記されていない(実は仙台湾沿いの牛橋公園のものだが津波高10.8mで、堆積物は最大で厚さ20cm以上はある。過去の地層中のものと単純比較は出来ないだろうが。)。 松岡裕美(2011) (PDF) 松岡裕美, 岡村眞(2011): 土佐湾湾奥部蟹ヶ池の堆積物中に見られる約2000年前のイベント, SSS035-P02 何か話が違うと思って見つけた、蟹ヶ池の津波堆積物の各コアサンプルの写真を示した資料は以下のようであった。これでなぞが解けた。確かに宝永地震も場所によっては約50cmと特大の津波堆積物を残しているが、2000年前の津波は海岸から離れた多くの箇所のコアサンプルでも分厚い堆積物を形成している。報道のみを鵜呑みにしたのでは物事を正確に把握したとはいえない。報道内容そのものが事実であるにしても、この件がそうであるように、その一部だけ(一部の津波堆積物のコアサンプル)を以てあたかも全体を現しているかのごとく印象を受ける。報道発表を出典に採用している多くの地震記事について追求調査が必要そうだ。やはり原典をあたって真相を解明することの重要性を痛感させられた。 サブページ |
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