利用者:Francesco Nagoya/ヴェネツィア共和国
![]() 最も高貴な共和国ヴェネツィア(ヴェネト語: Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)、イタリア語: Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(Repùblica de Venessia、Repubblica di Venezia)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国である。「最も高貴な国」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。また、信教の自由や法の支配が徹底されており、元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰された。 年表→詳細は「ヴェネツィア共和国の歴史」を参照
政府![]() 初期のヴェネツィア共和国では、ドージェが独裁的な権限を持っていた。しかし後にドージェは就任の際に宣誓を求められるようになり、結果として権力は大評議会と共有されることになった。大評議会の定足数は480であり、ドージェも大評議会も互いに相手を無視して決定を行うことはできなかった。 1175年にリアルトの有力貴族が小評議会を設立した。これは6人から成るドージェの顧問である。また、1179年には3人から成る最高裁判所Quarantiaが設けられた。これらは1223年にシニョリーア(Signoria)として統合された。これはドージェを含めて10人で構成され、政府の中枢であった。ドージェが死亡した際には、その葬儀で「ドージェは死んだ。しかしシニョリーアは健在である」と述べられた。また、2人から成るサピエンテス(sapientes)も設立され、後に6人に拡張された。これは他の集団と合わせてコッレージョ(collegio)を構成し、政府の実行部門となった。1229年に設立されたコンシリオ・デイ・プレガディ(Consiglio dei Pregadi)は貴族院のようなものであり、大評議会により選出された60名の議員が構成した[1]。これらの機関のために、ドージェの実権は限定的なものとなり、実際の職権は主として大評議会に委ねられた。1335年に十人委員会が設立され、政府の中枢として、非公開の活動を行った。1600年頃には、十人委員会の影響力が大評議会を凌ぐようになり、その権限は縮小された。 トマス・アクィナスは、ヴェネツィア共和国の政体は共和制とドージェによる君主制、そして貴族院による貴族政治と大評議会による民主政治の複合政体であると考えた[2]。また、ニッコロ・マキャヴェッリは、君主論でヴェネツィアを共和制国家に分類した[3]。 1454年に3人の調査官からなる情報機関が設立され、諜報、防諜、および国内監視のための情報網を充実させた。これは非合法な政体変革の企て等を阻止することが目的であった。調査官の一人は赤い外套を着用することからイル・ロッソ(赤い男)と呼ばれ、ドージェの顧問により任命された。もう一人はイ・ネグリ(黒い男)と呼ばれる黒い外套の人物であり、十人委員会に任命される。この情報機関は、徐々に十人委員会の影響下に置かれるようになった。[1] 1556年にprovveditori ai beni incultiが設立され、農業技術や、農業技術開発への個人投資が促進された。これは、16世紀の穀物価格上昇を受けてのことである。 元首![]() ヴェネツィア共和国の元首はドージェ(ヴェネツィア語:Doxe)と呼ばれ、その語源はラテン語: Duxであり、軍の指揮官または公爵を表す。ドージェは貴族による選挙で決定され、終身制である。年配者が選ばれることが多い。 選挙![]() 初期のヴェネツィア共和国では、ドージェの選任方法は明確には定められておらず、有力な家門から選出するという慣例があるのみであった。それ故に、初期のヴェネツィアではドージェが自身の血縁者に後を継がせようとする傾向が強かった。そこで、ドージェが世襲制となることで共和制が崩壊することへの危機感から、ドージェが後継者を指名することを禁じる法律が制定された。1172年には、ドージェは40人の委員による選挙により決められることとなった。この委員は大評議会から選ばれた4人により選任され、この大評議会は12人の委員会が毎年任命する。1229年に支持が20対20となり決着しなかったため、これ以後、委員の数は41とされた。 1268年に制定された選挙方法では、まず30人の委員が籤により大評議会から選ばれる。この30人はさらに籤で9人に絞られ、この9人が40人を選び、そしてその40人は籤で12人に減らされ、その12人が25人の委員を選ぶ。その25人は籤で9人となり、この9人が45人を定める。45人は11人に絞られ、この11人が、実際にドージェを決める41人を選任するのである[4]。この複雑な制度のために、有力家門といえどもドージェの位を自由にすることは難しくなった。この制度は1797年の共和国滅亡まで維持された。 新しく選ばれたドージェは、就任の宣誓を行う前に、ヴェネツィア市民からの承認を受けなければならなかった。実際には上述の選挙によりドージェの位は確定するのだが、それでも形式的にはヴェネツィア市民がドージェを決めていたのである。 制約共和国初期にはドージェは独裁的な権力を持っていたが、1268年にその権限を厳しく監視する法律が制定された。外国からの公文書を開封する際には他の官吏の立合いが求められ、国外に私有財産を保有することは禁じられた。 ドージェの任期は、一部には中途で解任された例もあったが、通常は終身であった。ドージェが死亡した後は、その生前の職務について厳しい調査が行われた。この際には、不正の証拠がないかどうか、私有地も調べられた。ドージェに与えられる報酬は決して高額ではなく、在任中も交易などで収入を得る必要があった。こうした収入も、調査の対象となった。 1268年7月7日から、ドージェが空位の間は、参事官がドージェの職務を代行することになった。 式典![]() ドージェには様々な式典を執り行う義務があったが、その中で最も重要なものは「海との結婚」であった。これは指輪をドージェの公式座乗船ブチェンタウロからアドリア海に落とすものであった。この祭礼の始まりは、ダルマチア征服を記念してピエトロ・オルセオロ2世が1000年の昇天祭で行ったものであった。教皇アレクサンデル3世と神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が1177年にヴェネツィアを訪問した後、この祭典は、より盛大に行われるようになった。 ドージェは、他にもサン・マルコ広場から始まる大行進を行った。この行進は下級の公務員が先頭に立ち、順に上級の公務員が続き、ドージェが中央を占め、そして上級の貴族から下級の貴族へ続いた。フランチェスコ・サンソヴィーノは、1581年にこの行列の詳細を記述し、チェーザレ・ヴェッチェッリオは1586年にこの大行進の絵を描いた。 14世紀以降、ドージェが式典の際に被った冠はCorno Ducaleと呼ばれるものである。これは宝石細工の施された錦のボンネットであり、先が角のように尖っていた。これは軟らかな麻のカマウロの上に被られた。復活祭の翌日にドージェはサン・マルコ広場からサン・ザッカリア修道院まで行進し、そこで女子修道院長から、修道女が織った新しいカマウロを贈られた。
十人委員会→詳細は「十人委員会 (ヴェネツィア共和国)」を参照
![]() 十人委員会は1310年に設立され、1797年の共和国滅亡まで存続した政府の中枢機関である。その活動はしばしば秘密にされたが、市民からは効率的かつ公正な機関であると認識されていた。十人委員会は、1310年7月10日にバイヤモンテ・ティエポロが共和国に対して起こした反乱を鎮圧するために、臨時職として設けられた。当初は2ヶ月間の暫定機関であったが、期限の更新が繰り返され、1335年に常設化された。 十人委員会の公式な任務は、共和国の治安維持ならびに政府転覆および汚職の防止である。しかし、組織が小さく迅速な決定が可能なため、その職務範囲は徐々に拡大し、1457年の時点では政府の業務全般を取り扱うようになった。特に、十人委員会は共和国の外交および諜報活動を監督し、軍を管理し、そして奢侈禁止令を始めとする様々な法律の執行を司った。また、十人委員会は不道徳な行い、特に賭博の取り締まりを試みたが、これはうまくいかなかった。 経済ヴェネツィア共和国は、イタリア最大の水系であるポー川を含む河川と、アドリア海の制水権を獲得しつつ商業を拡大させた。のちにはイオニア海、東地中海へと領地を拡大して支配力を高めた。 食料交易食料を自給できないヴェネツィアにとって、初期の交易では食料の調達が特に重要とされた。ポー川をはじめとして内陸からアドリア海に流れる河川にそって交易が行われ、イタリア王国内にあるヴェネツィアの修道院や貴族の土地や、内陸の都市から食料を入手した。重要な河川には警備のための要塞や艦隊が用意された。 海路では、東ローマ帝国の食料交易などに加えて、教皇領のあるマルケ地方、シチリア王国、ラテン帝国やアカイア公国などのギリシア諸国、クレタ島などから食料を輸入した。さらには、小麦、ワイン、オリーブ油、いちじく、チーズ、塩などの食料を海外から内陸都市へ再輸出することを独占し、対立する都市には禁輸を行うなどの政治的手段も用いた[5]。 東ローマ帝国での交易ヴェネツィア商人は東ローマ帝国内での特権によって、帝国内の都市間や、シチリア王国、十字軍国家、エジプトなどの諸国家と交易を行った。胡椒や絹などの東方貿易の商品のほか、オリーブ油、ワイン、綿、羊毛皮、インディゴ、武具、木材、奴隷などが取引された。帝国内では大土地所有者が支配的地位にあり、商人は排除されていたため、帝国内で多大な利益をあげた。 黒海での交易13世紀には、黒海東部にモンゴル人国家のキプチャク・ハン国やイル・ハン国が成立した。一方で地中海ではマムルーク朝によって十字軍国家が消滅し、教皇はキリスト教徒とマムルーク朝との交易を禁じた。このためヴェネツィアは東方貿易の商品を黒海経由で取引するようになり、黒海は香辛料、絹、奴隷などの一大供給地となった[6]。 地中海西部での交易イベリア半島でレコンキスタが進行し、ジブラルタル海峡での交通が安定すると、ヴェネツィアもロンドンやブリュージュまで商船を送るようになった。地中海と北ヨーロッパは、それまでの陸路にかわって海路が活発となる。イタリア北部では綿工業が盛んになり、ヴェネツィアは原料と製品の輸送を行った。 本土の市場カナル・グランデに面したリアルト市場で取引が行われた。商船が帰港し、出航するまでの間に輸入商品の販売と輸出商品の購入がされた。地中海は冬は航海に適さず、夏と冬に取引が多かった。 金融商業金融として、東ローマ帝国法の影響を受けたコレガンツァ(同輩組合)があった。コレガンツァには融資者とされる者の双方が出資する形式と、片方のみが出資する形式があった。前者はソキエタス、後者はコンメンダとも呼ばれる。双方が出資するコレガンツァは融資者が3分の2、商人が3分の1を出資し、利潤は折半した。片方のみ出資するコレガンツァは融資者が全額を出資し、利潤は融資者が4分の3、商人が4分の1を受け取った。資本の増加とともに片方のみ出資するコレガンツァが増え、資本がなくても能力がある者によって商人階層が拡大した。のちには海上貸付や為替などの金融も用いられるようになった。 通貨ヴェネツィア共和国の通貨単位はリラ(lira)であり、複数形はlireである。1807年までは独自のヴェネツィア・リラを発行していた。1リラは20ソルド(soldo,複数形soldi)であり、1ソルドは12デナロ(denaro,複数形denari)である。ドゥカートは124ソルドであり、zecchinoとしても知られるtalleroは7リラである。1807年、ナポレオンのイタリア王国の下でイタリア・リラが通貨として定められた。 18世紀後半には、以下の硬貨が鋳造された。ビロン硬貨として6デナロおよび12デナロ。銀貨として5, 10, 15,および30ソルド。 1/8, 1/4, 1/2,および1ドゥカート、1/8, 1/4, 1/2,および1 tallero。金貨として1/4, 1/2,および1ドゥカート、1 doppia,そして 4, 5, 6, 8, 9, 10, 12, 18, 20, 24, 25, 30, 40, 50, 55, 60, 100, および105 zecchini. 1797年の臨時政府は10リラ銀貨を発行し、続くオーストリアによる占領下では、1/2, 1, 1.5,および2リラ銀貨と1 zechinno金貨が1800年から1802年の間に発行された。 交通・通信船舶13世紀以降の地中海では船舶の種類が増え、コグ船やガレー商船などが導入された。ヴェネツィアはガレー商船が他国に比べて多く、統一規格にもとづいて国立造船所で建造し、国家の所有のもとで定期航海を行った。船団の利用権は有力商人たちの競売にかけられ、ガレー商船は積載量が小さいため高価軽量の商品を運んだ。海軍によって安全を確保し、定期的に船団が運営される点は、ヴェネツィアのガレー商船の特徴だった。一方で、帆船は多くが私立造船所で建造され、ヴェネツィア人以外にも用いられた。帆船は積載量が大きいため、食料、綿や羊毛などの原料、資材などの低価格で重量のある商品を運んだ。 商業通信13世紀以降は、それまでの行商から、通信による取引への移行が進んだ。商人は船便による文書で連絡を取り、遠方の市場にいる代理人に取引を頼んだ。15世紀にダマスクスの代理人からヴェネツィアへ送られた文書としては、商業書簡、勘定書、価格表、購入報報告書の4種類の記録がある。このように文書によって遠方の取引を行っていた[7]。 出典・脚注
参考文献
一次史料
関連項目
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