利用者:Gesteinbrunnen/sandbox第二次大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日
満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)は、1931年(昭和6年)の満州事変以降、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までの期間に日本政府の国策によって推進された、満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とも言われる。1932年(昭和7年)から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、14年間で27万人が移住した[1] [2]。 ↑ 概要1931年の満州事変以降に日本からの満州国への移民が本格化。1936年、広田内閣は「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に500万人の日本人の移住を計画、推進した。同時に、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画(「二十カ年百万戸送出計画」)も打ち出された。 日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。加藤完治が移住責任者となり、満州拓殖公社が業務を担っていた。この移住は1945年半ばまで続き、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。満蒙開拓に送り込まれた27万人のうち、長野県出身者が約3万4千名で最も多く、全体の12.5%を占め、第二位の山形県の2.4倍であった[4]。
背景日本政府により戦前に進められていた、北アメリカやブラジルなど南米諸国への日本人移民の入植移民数に段階的制限が加えられるようになった。また、昭和恐慌によって当時の日本の地方農村地域は疲弊と困窮を極めており、窮乏生活を送らざるを得ない農業従事者らの強い移民志向もあったとみられている。 また、日本の対満政策における治安維持の方針として、兵力増進による地域的治安の保持、兵匪を警備等に雇う兵工政策の他に、農業集団移民を1~2年間屯墾義勇組織として治安維持に当たらせる屯田移民政策が考案されていた[7][8][9]。軍事移民により、財政負担を減らせるとされていた[10]。 費用案中島仁之助の論文「我が農業と満蒙移民」より[10][11]。
年表
開拓移民団満州開拓移民は農業従事者を中心に、村落や集落などの地縁関係に重点をおいた移民団(開拓団)が日本の各地で結成された。彼らは農業研修や軍事的な訓練を渡航前に受け、大陸へ「満州開拓武装移民団」として送り込まれる方式がとられた。 満州開拓移民の募集には、『王道楽土』や『五族協和』などをスローガンに喧伝したキャンペーンが大々的に行われ、多くの人々が募集に応じた。 入植の実態満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず「匪情悪化」を理由に既存の地元農民が開墾している農村や土地を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、満州拓殖公社がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げ日本人開拓移民を入植させる政策が行われた。およそ2000万ヘクタールの移民用地が収容された(当時の「満州国」国土総面積の14.3%にあたる)。日本政府は、移民用地の買収にあたって国家投資をできるだけ少額ですまそうとした。1934年(昭和9年)3月、関東軍参謀長名で出された「吉林省東北部移民地買収実施要項」では、買収地価の基準を1ヘクタールあたり荒地で2円、熟地で最高20円と決めていた。当時の時価の8%から40%であった。このような低価格での強権的な土地買収は、吉林省東北部のみで行われたのではなく、満州各地で恒常的に行われた。浜北省密山県では全県の私有地の8割が移民用地として取り上げられたが、買収価格は時価の1割から2割であり、浜江省木蘭県徳栄村での移民用地の買収価格は、時価の3割から4割であった。そのうえ土地買収代金はなかなか支払われなかった[13]。このように開拓民が入植した土地の6割は、地元中国人が耕作していた土地を強制的に買収したものであり、開拓地とは名ばかりのものであった。そのため日本人開拓団は土地侵略の先兵とみなされ、初期には反満抗日ゲリラの襲撃にあった。満州国の治安が確保されると襲撃は沈静化したが、土地の強制買収への反感は根強く残った[14]。 満洲国は、日本の本土の延長である「外地」ではなく、日本政府の承認した一国家(日本から見て「外国」)であった。移住した日本人開拓団員たちは開拓移民団という日本人社会の中で生活していたことに加え、渡満後もみな日本国籍のままであった(満洲国には国籍法は存在せず、満洲国籍は存在しなかった。)そのため、「自分たちは住む土地が変わっても日本人」という意識が強く、現地の地元住民たちと交流することはあっても現地人と同化しなかった。開拓民は、役場と農協を兼ねる団本部を中心に、学校、神社、医療施設、購買部を中心とする、日本人コロニーを形成しており、コロニー内で生活が完結していた。学校も民族ごとに別々に設けられていた。そのため中国人集落と接しながらも、在地社会との接触は限られていた。また、一戸あたり10町歩から20町歩の広大な農地を割り当てられたが、これを自家のみで耕作するのは困難であり、結局は現地労働者(その土地を元来耕作していた農民を含む)を「苦力」として雇ったり、小作に出したりという、地主的経営にならざるを得なかった。「五族協和」が唱えられながらも、「地主ー小作関係」に民族問題が絡み合うことになり、「五族協和」は実現困難だった[14]。 「満洲開拓政策基本要綱」は「第一.基本方針」「第二.基本要領」「第三.処置」の3部からなり、さらに「付属書」「参考資料」が添付されている(開拓総局 1940)。具体的な政策実施方針を定めた「基本要領」の内容は、以下の4点にまとめられる。
「満洲開拓政策基本要綱」により、日本人移民政策における満洲国政府の位置づけは大きく転換した。満洲拓植委員会は存続したものの、以後日本人移民政策の基本方針決定過程では両政府間の直接協議が重視され、満洲国内の政策実施は基本的に満洲国政府に委ねられることになった[15]。 石原莞爾と甘粕正彦は満蒙開拓武装移民には否定的であった点では共通するが、甘粕の場合、大型機械などを用いた産業化とは対極的な、過酷な身心鍛練を通した農本主義的・精神論的な加藤完治の“日本主義”のそれにあり、屯田兵の役割を担う開拓武装移民団には肯定的であった[16]。 戦局の悪化による兵力動員で1942年以降は成人男性の入植が困難となり、15歳から18歳ほどの少年で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」が主軸となった。少年らは茨城県水戸の「内原訓練所」で2か月間訓練され、満州へ送られた。その後さらに満州では「満州開拓青年訓練所」にて3年間現地にて軍事訓練を受け、各地へ開拓移民として配属される。対ソ連への戦略的観点から、主にソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた。 移住後の問題入植後の不協和音からもめ事や内紛がおき、幹部の対立による離脱や構成員の反発による紛争も生じた。1940年5月28日、寧安近郊で起きた香川県出身者の開拓村の紛争事件では、憲兵が出動し11人の団員が帰国通告の処分となった。開拓移民団の中には鉱山開発やダム建設のため、開墾し入植した土地を事業者に移転させられたり引き払わされた事例もあったが、彼らの反発は関東軍によって抑えられた。 日本の開拓政策を知る一部の地元の農民には、日本人開拓移民団を自分たちの生活基盤を奪った存在として反感を抱いている者が少なからずおり、団員との衝突やトラブルに発展するケースも相次ぎ、絶えることがなかった。これらの日本人移民団への反感が、反日組織の拡大につながった。そして、のちのソ連参戦時に移民団員が現地住民たちに襲撃される伏線ともなってゆく。[要出典]
概説昭和恐慌と試験的移民期二・二六事件と本格的移民期しかし、同年の二・二六事件により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、同事件により高橋是清蔵相も暗殺され、反対論も弱まり、広田弘毅内閣は、本事業を七大国策事業に位置付けた[17]。同年末には、先に関東軍作成の「満州農業移民百万戸移住計画」をもとに「二十カ年百万戸送出計画」を策定した[17]。その後の1937年(昭和12年)には、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)の発足、1938年(昭和13年)に農林省と拓務省による分村移民の開始、1939年(昭和14年)には日本と満州両政府による「満洲開拓政策基本要綱」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた[17]。1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)までの5年間は「本格的移民期」にあたり年平均送出数は、3万5000人にのぼる[17]。 日中戦争と移民崩壊期日中戦争の拡大により国家総力戦体制が拡大し内地の農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者が激減したが、国策としての送出計画は変更されなかった[17]。 国は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした[17]。具体的には補助金による分村開拓団・分郷開拓団の編成、義勇軍の義勇軍開拓団への編入などである[17]。それでも、予定入植戸数(一集団の移民規模;200から300戸)に達しない「虫食い団」が続出した。「移民崩壊期」である[18]。 1940年(昭和15年)には、同和地区からも開拓団が編成され、1941年(昭和16年)からは統制経済政策により失業した都市勤労者からも開拓団を編成した[19]。結局、青少年義勇軍を含めると約32万人が移住したことになる[20]。 開拓民が入植した土地はその6割が漢人や朝鮮人の耕作していた既耕地を買収した農地であり、開拓地と言えない土地も少なくなかった[19][21][22]。***
開拓団の引き揚げ青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は27万人とも、32万人ともされる。ソ連の参戦でほとんどが国境地帯に取り残され、日本に帰国できたのは11万人あまりだった。各地の開拓移民団は引き揚げの途中で多くの死者、行方不明者、収容所での感染症による病死者を出し、無事に帰国できた開拓団はなかった。また、国境を越えてきたソ連兵に捕らえられシベリアへ送られた男子入植者は、シベリア抑留者となり帰国は更に困難を極めた。 敗戦後の日本の混乱により、開拓移民団を中心とした大陸から帰国した「引揚者」は帰国後の居住のあてもなく、戦後も苦難の生活を余儀なくされた。政府は、彼らに移住用の土地を日本の各地に割り当てることにしたが、非耕作地が多く開墾の必要な土地であった。いずれの土地も荒れ、耕作には適さず、多くの人々は過酷な状況にさらされた。敗戦によって日本全体が困窮しており、政府も満足な支援をすることが出来なかった。 このような移住用集落は戦後、全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた。また、山梨県の旧上九一色村に入植した開拓者の多くは、バブル期前後までに耕作を放棄して村外に転出し、その不動産の多くがオウム真理教に売却され、サティアンと呼ばれる宗教施設が乱立した。 文学者たち開拓団には、日本本土から作家たちが訪れ、そこに取材したルポや小説を書いたものもいる。島木健作の『或る作家の手記』「満洲紀行」、徳永直の『先遣隊』、長野県大日向村からの分村に取材した和田伝の『大日向村』などがある。また、葉山嘉樹はみずからも開拓団の一員として現地で生活し、引き揚げ途上で没した。 ↑ ソ連参戦と終焉太平洋戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの召集も増えるようになり、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が召集された[17][23]。同年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡した[17]。ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人、その大半が老人、女性、子供であった[24]。男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい、その過程と難民生活で約8万人が死亡した[17]。主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を強制的に取り上げられ生活の基盤を喪っていた地元民からの襲撃、前途を悲観しての集団自決などが理由である[17]。敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれるが、その死者20万人の4割を開拓団員が占める[20]。 自決や殺害の危機を免れ辛うじて牡丹江やハルピンに辿りついた人々は、麻袋の底をくりぬいて身に纏う避難民の姿が目立った[24]。運よく貨車を乗り継いで、長春や瀋陽にまで辿り着いた人々もいたが、収容所の床は剥ぎ取られ、窓ガラスは欠け落ち、吹雪の舞い込む中で飢えと発疹チフスの猛威で死者が続出した[24]。孤児や婦人がわずかな食料と金銭で中国人に買われていった[24]。満州に取り残された日本人の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち上述のように8万人を開拓団員が占める[25]。満州での民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、沖縄戦を凌ぐ[25]。 内地に生還した元開拓移民も、引き揚げ後も生活苦にあえぎ、多くが国内開拓地に入植したが、南アメリカへの海外移民になった者もいた[26]。 前記の通り、中国人に買われた孤児や婦人が約1万人いたため、中国残留日本人問題となった。[26]。この帰還は、1972年(昭和47年)の日中国交正常化から21世紀まで続く現代的な問題である[26]。 開拓団員と義勇隊員併せて3万7000人の移民を送り出した長野県[27]内に満蒙開拓平和記念館(同県下伊那郡阿智村)がある[20]。同記念館は、2014年に、開拓団の生活やソ連軍侵攻後の逃避行についての聞き取り調査する活動を、中国人目撃者から聞き取る活動を行った[20]。黒竜江省方正県大羅密村の最年長男性によると、ソ連国境近くにいた開拓団民が同村まで徒歩で逃れてきたが「開拓団民はみなぼろを着て、女性は丸刈りだった。生活は苦しく、中国人に嫁いで子供を産み、何年もしてやっと帰国できた」などの体験談などを得ている[20]。*** その他ドキュメンタリー関連項目
脚注
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参考文献
外部リンク
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