利用者:Inglid/sandbox
犬鳴(いぬなき)は、福岡県宮若市にある大字。郵便番号は822-0134。人口は2015年時点で0人である。 交通は県道21号線道路があり、宮若市と久山町へつながる。またJR九州バスの博多~直方線も運行されている。宮若市側へ進むと、福岡の奥座敷とも呼ばれる脇田温泉がある。 平成以降はこの地域に居住者がいないものの、江戸時代頃は木炭、和紙の製造、たたら製鉄、オタネニンジンの栽培など、産業に特化した地域として有名である。また福岡城の逃げ城とされた犬鳴御別館も遺されており、江戸時代以降から数多くの歴史がある。 犬鳴谷村の歴史
かつては犬鳴地区に犬鳴谷村(いぬなきだにむら)という村があった。犬鳴谷村は1691年(元禄4年)から1889年4月1日(明治22年)まで福岡県(筑前国)鞍手郡に存在した村。現在の犬鳴ダムに位置する。犬鳴村は誤用であり、正式には「犬鳴谷村」とよぶ。 地理宮若市の犬鳴山や西山には、遠賀川水系の犬鳴川が流れている。その源流の谷川に沿って犬鳴谷村が形成されていた。この谷を本谷といい、主に集落はここに形成された。ここから「ゆずりは谷」、「薬研谷」、「人参谷」、「あなぐら谷」など多数の谷に枝分かれしている。 現在は犬鳴ダム建設によって、犬鳴谷村の殆どがダムの底に沈んでいる。
犬鳴谷村に面した谷の一覧。
沿革1691年(元禄四年)、 福岡藩庁は鞍手郡吉川庄犬鳴谷に存在していた藩有林の維持管理のため、御譜代組足軽(ごふだいぐみ あしがる)[3]数家(篠崎(しのざき)・藤嶌(藤嶋、ふじしま)・三浦(みうら)・赤星(あかほし)・渡邊(わたなべ)・水上(みなかみ)・安永(あんえい)・寶部(たからべ)などの各家)に移住を命じ、この年に犬鳴谷村が成立した(福岡藩は犬鳴谷村庄屋兼足軽組頭として篠崎文内を任命)[4]。 犬鳴足軽各家は、苗字の公称、両刀の帯刀、羽織と袴の公的着用を許されていた士分扱いの上級足軽であったことが福岡藩文書に記してある。 ちなみに犬鳴足軽の俸給は、組頭を除いて平均六石三人扶持(ろくせきさんにん ふち)だったらしく、現米ではなく支給分を現金に換算して支払われていた(犬鳴足軽総員分の大繩地として隣村である脇田の一部が充てられていた)。犬鳴ダム奥には、世襲で庄屋兼足軽組頭(しょうやけん あしがる くみがしら)を勤めてきた篠崎家代々の墓石群が残っている。 犬鳴の各家には、福岡藩庁から貸与を受けていた御貸具足(おかしぐそく)・藩候紋入り陣笠(はんそうもんいり じんがさ)・鉄砲(てっぽう)・刀槍(とうそう)などが最近まで遺存していた。1868年(明治初年)、篠崎・渡邊の両家は士族、他の各戸は卒族に編入されたが、1872年(明治5年)卒族制廃止と同時に、犬鳴卒族は福岡県庁から強制的に平民籍に編入された。 犬鳴各戸の菩提所(ぼだいしょ)は、浄久寺(浄土宗・宮若市乙野)と東禅寺(曹洞宗・宮若市湯原)に2分される。最近の研究によると、御譜代組足軽の立場から、この2寺を菩提所としたとの説があり、浄久寺と東禅寺の過去帳に犬鳴の地名が見られるのは1693年~1694年(元禄6、7年)からである。 ※福岡県糟屋郡久山町にある天照皇大神宮(通称・伊野大神宮)の拝殿脇には1692年(元禄5年)に犬鳴足軽一同から寄進された御手洗石が苔むして現存している。
※1889年の合併以降に発足した吉川村時代の歴史も含む。
江戸時代後期頃まで犬鳴に居住していた脇田の寶部家(たからべ け)には西南戦争に出征した寶部乙吉(たからべ おときち)が熊本鎮台司令長官「谷干城」から与えられた感状が現存している。 ※1873年(明治6年)に福岡県嘉摩地方より勃発した筑前竹槍一揆(ちくぜんたけやりいっき)は、ほぼ旧筑前国一帯に波及した大一揆で、犬鳴周辺の村の農民は一揆勢に助力したりする者が多く、また戸長や富豪などは一揆勢により襲撃されたが、士族および旧卒族の村であった犬鳴においては一揆による影響は皆無で、村民も一揆には助力しなかったと言う。 文化人口犬鳴谷村は、犬鳴川源流の谷川に沿って形成されており、地理的に大きく3つに区分されている。谷川の上流には6世帯、日原神社の周辺に13世帯あり、その中心に犬鳴分校と犬鳴店があったため、学業や買い物など村の中心的役割を担っていた。下流域には9世帯あり、この辺りには観音滝やお地蔵様が祀られている。1986年2月(昭和61年)時点では、総世帯数28戸あった。 庄屋時代以前の村組織に関する文献は残っておらず不明である。鞍手郡誌によると1868年(明治元年)は31戸、1877年(明治10年)は28戸、昭和初期頃は45戸、1953年(昭和28年)は40戸、その後は離村者が増えたため、ダム工事直前までには28戸まで減少した[24]。 ※1872年(明治5年)明治政府の命令で福岡県が編纂を開始した『福岡県地理全誌』犬鳴谷村の頁には戸数31戸の内、士族3戸・平民(旧卒族)28戸、人口141人男80人女61人、職分(農業)男35人女28人(工人)男2人女1人(雑業)男12人女4人(雇人)男1人女1人と記してある。
教育1872年(明治5年)には犬鳴谷村唯一の教育機関として、民家を借りた寺子屋式の小さな学校が設立され、1885年11月(明治18年)に犬鳴小学校という名称が付けられた。しかし初代の犬鳴小学校は老朽化が著しくボロボロであった。そのため1912年から1914年(大正元年~2年)にかけて吉川村役場を解体したときに出てきた材木を利用して改築し、立派な校舎に建て替えられた。校舎には玄関、教室1部屋、宿直室、便所があり、グラウンドにはすべり台、鉄棒、ブランコが備え付けられた。1920年10月(大正9年)には、吉川尋常高等小学校と合併し、犬鳴分教場と改名された。しかし学制発布の影響もあり、1966年(昭和41年)に吉川小学校に併合され、90年余りの歴史をもった犬鳴小学校は、1966年3月31日(昭和41年)をもって閉校となった。閉校理由としては、犬鳴小学校の児童数が減少したためである。またさらには犬鳴谷村に国鉄バス路線ができて交通の便が良くなったため、児童を吉川小学校に収容して教育効果を向上させる事由もあるためである[25]。 宗教
犬鳴谷村では、日原神社(ひわらじんじゃ)が信仰の対象とされてきた。日原神社は1703年に勧請され、犬鳴分校のすぐ側、字勘場の割谷に沿った高台に鎮座しており、その両側には巨大なスギやヒノキが連なっていた。境内には元々山中にあった「山の神」、「天満宮」、「ふくっつぁま」が合祀されている。山の神は皿山に祀られていたもので、大山祇命を祭神とされている。天満宮は犬鳴御別館の裏山に祀られ、祭神は菅原道真である。毎月25日の夕方には小豆飯のおにぎりをお供えしてお参りしていた。ふくっつぁまは、福地神社(福間町旦ノ原 ※当時の地名)に祀られていたもので、いつ犬鳴に勧請されたかは不明である。これは毎年12月13日の夜にお参りして小豆飯をお供えしていた[26]。 また犬鳴ダム建設計画による水没を避けるため、1987年10月より宮若市脇田に移転された[27]。本殿と鳥居は、犬鳴谷村時代とほぼ同じ形でしっかり復元されている。「山の神」、「天満宮」、「ふくっつぁま」の小祠は新しく作り直されているものの、外見は継承されている。
産業
※江戸時代、吉川・中・山口地区(宮若市旧若宮町域)の年貢米や木炭などの林産物は宗像郡津屋崎の港に集積され、藩御用船によって福岡藩大坂蔵屋敷に運ばれていたと言う。 「出典:宗像郡の歩み」 施設・遺構遺構の場所については、本記事上部にある犬鳴谷村の地図を参照。
※犬鳴に福岡藩が江戸時代後期、天保銭などの銭貨密造のために開坑したと言われる銅山跡がある。現在も巨大な坑口がそのまま残っている。
村名の由来
その昔、脇田の山中へ二匹の犬を連れ猟に来ていた猟師は遭遇した大蛇に襲われてしまう。主人を救おうと犬たちは急いで村里に引き返し村民を連れてきたが、すでに猟師は飲まれていた。二匹の犬は村民と共に大蛇を退治し村民は腹から猟師を救出したものの猟師はすでに息絶えていた。二匹の犬は嘆き悲しみ、かわいがってくれた猟師を思い、一声、天に向かって鳴き叫び息を引き取った。脇田の村人が不憫に思い猟師ともども犬を埋葬、供養し石積塚を築いた事から、この山を犬鳴と言うのが地名の由来。この石積塚と言い伝えられる物は現在も犬鳴山中にあるが、存在地は非公開である。また犬鳴村役場の存在も聞いてはいない。犬鳴の各戸には御貸具足と言われる福岡藩庁から貸与された足軽具足、藩侯紋入り陣笠、鉄砲、刀などが残っていたと言う。犬鳴の小字名で勘場と言う所(犬鳴ダム奥の親水公園一帯)は犬鳴足軽の人事管理および藩有林の運営事務を行うための勘定場があった所と言い伝えられる。地名で焔硝蔵と呼ばれていた所もあったが、この地は福岡藩庁が犬鳴足軽団に貸与していた鉄砲に使用する焔硝(火薬)を格納、管理していた蔵の跡地だと思われる。 その他
脚注
参考文献
関連項目
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