利用者:Kusamura N/sandbox/3
デステュット・ド・トラシー(Antoine Louis Claude Destutt de Tracy、1754年7月20日 - 1836年3月9日)は、フランスの哲学者、政治家である。「トラシ」と訳されていることも多い[1]。フランス革命時は、貴族身分選出議員として三部会に参加、絶対王政に反対して立憲王政を支持した。革命後の恐怖政治時代には投獄され死刑宣告されたが、クーデターで釈放されると元老院議員を務め、学士院の会員となって教育制度改革にも取り組んだ。王政復古期には伯爵に戻った[2]。 哲学的には、自ら命名した観念学の主導的理論家の一人として『観念学原論』を著した。
生涯![]() アントワーヌ=ルイ=クロード・デステュット・ド・トラシーは1754年7月20日、スコットランド出身の貴族で軍人の父の息子としてパリで生まれた。父親はプロシアとの7年戦争で受けた傷が元で1766年に、まだ若いデステュットを遺し死去した[3]。少年デステュットは教育に熱心だった母親のもとで古典などの勉学に励んだ。ストラスブール大学へ進むと、同時に砲兵学校でも学び、卒業すると王室近衛連隊に入った。この時期、啓蒙思想と接し共鳴したデステュットはヴォルテールに会いに行き、終生ヴォルテールを愛読し続けた。[4] ![]() フランス革命が起きると、スコットランド貴族の後裔であるデステュットは貴族代表として1789年に開かれた全国三部会に参加し、絶対王政に抗して立憲王政の側についた。だが革命はやがて王政打倒を主張するジロンド派の勢いが強まった。立憲君主制派のデステュットはパリ郊外に身を移し、啓蒙思想家が出入りしていたエルヴェシウス夫人のサロンに参加し、同時代盛んになりつつあった自然科学の知識を得た。1791年に立憲君主制を定めて制定された1791年憲法は、新たに行われた普通選挙で選ばれた議員達による国民公会によって王制とともに廃止され、次の年、ルイ16世が公開処刑され、さらにジャコバン派による恐怖政治が始まると、王党派であったテステュットは逮捕され投獄され、死刑判決を受けた。 ![]() 1714年-1780年 デステュットは獄中でジョン・ロックとコンディヤックの著書に没頭したという[3]。死刑が執行されようとする直前にテルミドールのクーデターが起きて執行は停止され、ジャコバン派の独裁者ロベスピエールの死刑が執行されて、テステュット・ド・トラシーは釈放された。[4] 釈放されたデステュットは、獄中で学んだコンディヤックの思想を基に自分の思索を深め、著述に手を染める。この頃(1871年)長男が誕生(後に政治家)[5]。1795年、デステュットは、廃止された王立アカデミーに代わって設立された学士院第2類「道徳と政治の科学クラス(倫理・政治学アカデミー)」会員となった[6]。翌年から活発に学士院で論文を発表しはじめ、1789年にそれらをまとめた『思惟機能についてのメモワール』が出版された。 この中でデステュット・ド・トラシーは自分たちの哲学を「観念学(idèologie、イデオロジー)」と呼ぶことを初めて提唱したのである。[7] ![]() 1799年11月ナポレオン・ボナパルトの配下によるブリュメールのクーデターが起き、五百人会議員たちの退場などを経た後、やがてナポレオンの統領政府が敷かれた。デステュットは王党派のイデオロジストたちと共に元老院議員となり、公教育委員会メンバーにも選出された。最初ナポレオンと観念学派(イデオロジスト)は良好な関係だったが、フランス革命の理念を保つイデオロジストたちは、独裁的になっていくナポレオンに対し批判的になっていった。デステュットは、1803年から主著『観念学原論』シリーズ(3巻)を出版し始めた(各巻のタイトルは『固有な意味でのイデオロジー』『文法』『論理学』、これに1801年に刊行されていた『』である。 ![]() デステュットが主著の刊行を続けている最中の1803年、観念学派を疎んじ始めたナポレオンは、デステュットたちを筆頭に観念学派の牙城であった学士院「倫理(道徳)と政治の科学クラス」を解体・廃止した。しかしデステュットは、観念学派の仲間カバニスの死去を受け、1808年6月15日にアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。 ![]() 1806 年に Commentaires の印刷を禁止されたデステュット・ド・トラシーは、アメリカ大統領トマス・ジェファソンに訴えて、英語版を出してくれと頼むしかなかった。フランスでの刊行はやっと 1819 年になってからだった。ジェファソンはまた、トラシーの主要経済論考 Traité de la volonté (Eléments第四巻) の英訳 Treatise on Political Economy(1818) を自ら監督した。これはフランスでは 1823 年に Trait d'économie politique として再刊された<書き方と信頼性の問題で出典としては使えないen:Antoine_Destutt_de_Tracy#。 1809年、デステュットは、アメリカ前大統領トーマス・ジェファーソン(就任期間1801-1809)の元に、ナポレオン独裁に対する批判を内蔵した『法の精神注釈』原稿を送り、作者名を伏せて英訳で出版して貰えるよう頼んでいる。[4] ![]() ナポレオンは帝国拡大のスペイン侵略戦争でイギリス・オーストリアの第五次対仏大同盟を相手に苦戦していた。7月に辛くも勝利したが、1812年から始めたロシア侵攻は困難を極め[8]、それを見た周辺諸国も参戦して対仏戦争に加わったことで、ついに大敗を喫して1813年、大遠征からフランスへ逃げ帰った。(ナポレオン・ボナパルト#帝国崩壊へ)。 1814年元老院議員だったデステュット・ド・トラシーは、ナポレオンの廃位を元老院で提案した。1814年4月、フランス元老院はナポレオンの廃位を宣言し、ナポレオンは退位宣言に署名し、5月4日にエルバ島に流された[9]。 ナポレオン退位に伴う王政復古のもとで、デステュット・ド・トラシーは伯爵として残る。1832年には復活した「道徳と政治科学アカデミー」の会員に選ばれた。 晩年のデステュットの様子は、スタンダール(デステュットの影響を深く受け自作『恋愛論』を「観念学の書」と言うまでに観念学に傾倒していた)が『エゴチズムの回想』という作品に描いている。[10] アントワーヌ=ルイ=クロード・デステュット・ド・トラシーは、1836年3月9日、パリで死去し、著名人が多く眠るペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。[11] 哲学「観念学」は、新しい学的対象や領域を扱うのではなく、むしろ西洋哲学での伝統的な関心領域を引き継ぐのだが、それを扱う際にロック由来の「経験主義」とコンディヤックの「分析」方法論を適用することで、統一された(つまり体系的な)「人間学」を実現することを目論んでいた。デステュットの計画は、イデオロジーの体系は狭義の観念学(思惟や感覚などの分解(解析)と再構成による実証的かつ根本的理解)のみならず、文法、論理学、経済学、道徳学、法学、さらに物理学、幾何学、算術までも対象として含んだ「第一哲学」を確立するというものであった。[12] その方法のひとつは、理性(合理的明証性)にもとづき人間の観念(思惟・感覚、つまり精神)を分解・分析する方法であるが、デステュットはそれを「心理学」とは呼ばなかった。単に個別の実証例の羅列・分類ではなく、分析された要素は最も根源的なものでなければ「第一哲学」として全学問の基礎(「諸理論の(ための)理論」『観念学要論』)、知の統一をなすための原理にならないからである[14]。 デステュットはイデオロジーのもうひとつの方法「生理学的方法」は、カバニスにゆだねた。
著書
参考文献
脚注
諸評価
関連項目外部リンク
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