前川明人前川 明人(まえかわ あきと、1928年3月28日 [1] -2025年2月 )は、長崎原爆を体験した被爆者、歌人。長崎県長崎市出身・在住。2025年2月死去。享年96。 短歌会「未来」「幻桃」に所属。「幻桃」では顧問を務める。長崎県文芸協会常任委員。長崎歌人会相談役。長崎原爆忌文芸大会選者。歌集『褐色山脈』は長崎県文学奨励賞、『空間』は第18回長崎県文学賞を受賞した[2]。 略歴1928年、長崎市に生まれる。山里国民学校を卒業後長崎逓信講習所[3][4](長崎市麹屋町[5])に入学。1944年4月、長崎本博多郵便局[6]に勤務。1945年6月、通信書記補に任官。空襲警報が鳴ると夜中でも鉄かぶとを頭にかぶり、足にはゲートルを巻いて、大浦・日の出町[7]の自宅から同局まで走った[8]。 1945年8月9日、17歳のとき長崎市にあった 本博多郵便局 [6](当時は、本博多町にあった。現在この場所は、万才町の名称になっている。跡地には「長崎東京間郵便線路開通起点の跡石碑」がある[9]。)で電報の受付の勤務中に被爆した[10][注釈 1][注釈 2]。 戦後、歌誌「短歌長崎」に入会し短歌を始める。ここで18年にわたり短歌を学んだ。1952年に日本歌人クラブ会員となり、1961年有志らと超結社の短歌研究グループ「渦」を結成した。その後、短歌会「未来」・「歌の実」・「幻桃」などに所属した。 退職後、61歳で歌集「褐色山脈」を、65歳で「黄砂の周囲」、74歳で「空間」、77歳で「円型」、81歳で「破裂」の歌集を発表。「空間」は長崎県文学賞を受賞した。 1994年、短歌講座の講師を務めるとともに、修了生により結成された「れもん短歌会」の指導者となり、20年間にわたり、合同歌集「檸檬」を発行している。また、長年、各短歌会の運営に参画し、短歌の選考を行った[12]。 著作
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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