前田浩継
前田 浩継(まえだ ひろつぐ、1976年1月3日 - )は、福岡県宗像市出身の元プロ野球選手(投手)。 現在は、横浜DeNAベイスターズの一軍マネジャー。 来歴・人物プロ入り前東福岡高3年の時に第75回全国高等学校野球選手権大会に出場、初戦(2回戦)敗退。 九州共立大学に進学後、福岡六大学リーグで最優秀選手を3回、6季連続ベストナインを獲得する活躍をみせ[1]、3年時の大学選手権では準優勝。1997年度ドラフト会議にてオリックス・ブルーウェーブから3位指名を受け、入団。登録名は当時監督だった仰木彬の発案により「ヒロ」となった。 オリックス時代1998年シーズンは一軍登板なしに終わった。 1999年シーズンはプロ入り初登板を果たしたがこの1試合だけに終わり、わずか2年で戦力外通告を受けた。 結局オリックス時代は、病気などもあり、即戦力としての期待に応えられなかった。その後、テスト入団でヤクルトスワローズへ移籍。 ヤクルト時代2000年シーズンは初先発を含み、11試合に登板し、2勝2敗、防御率3.48の活躍を見せた。 2001年シーズンは先発投手として登板数を大きく増やし、28試合に登板し、7勝を挙げ、規定投球回にも初めて到達する活躍見せ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献。大阪近鉄バファローズとの日本シリーズでは第4戦に先発登板し、勝ち負けは付かなかったが6回1失点といてまえ打線を封じ込める活躍を見せた。 2002年シーズンは前年のシーズンの活躍から一転し、先発での登板数は3試合に留まり、中継ぎでの登板が多くなった。安定感を欠き、3勝しか挙げられなかった。 2003年シーズンはサイドスローへ転向したが先発での登板は1試合だけとなり、中継ぎ要員となった。15試合の登板に終わった。 2004年シーズンは2試合に登板しただけで一軍登録を抹消され、シーズン途中に田中充投手・丸山泰嗣内野手との交換トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。 ロッテ時代2004年シーズンは一軍登板なしに終わった。 2005年一軍での登板はこの年のシーズンもなかった。同年のシーズン限りで現役を引退。 引退後引退後は、古巣・東京ヤクルトの打撃投手や横浜DeNAベイスターズの打撃投手を経て、2015年から中畑清監督の専属広報という形で横浜DeNAベイスターズ一軍サブマネジャーに就く。中畑の退任後も引き続き一軍サブマネジャーを務め、左腕ということで、時に打撃投手を務めることもある。北京五輪予選(アジア地区及び最終予選)、北京五輪本大会、第2回WBCでも日本代表の打撃投手を務めており、WBC連覇を果たした日本代表チームを陰ながら支えた。 詳細情報年度別投手成績
記録
背番号
登録名
脚注
関連項目外部リンク
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