北白川道久
北白川 道久(きたしらかわ みちひさ、1937年〈昭和12年〉5月2日 - 2018年〈平成30年〉10月20日)は、日本の旧皇族。北白川宮永久王と同妃祥子の第1王子。北白川宮第5代当主。皇籍離脱前の身位は王で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、北白川宮道久王(きたしらかわのみや みちひさおう)であった。男系では崇光天皇の19世子孫、女系では明治天皇の曾孫にあたる。 生涯1937年(昭和12年)5月2日午前9時53分、北白川宮永久王と同妃祥子の第1王子として、東京市芝区高輪の北白川宮邸で誕生[1]。1940年(昭和15年)9月4日、父宮・永久王が事故により薨去。わずか3歳で北白川宮家を継承。未成年のため終戦時の宮家の当主の中で唯一の非軍人だった。その後、3年祭(三周忌)頃まで、妹の肇子女王とともに「北白川宮の遺児」として社会的注目を受ける。第二次世界大戦における日本の降伏後は、皇統護持作戦で保護の対象となる(作戦は中止)。1947年(昭和22年)10月14日、皇室典範第11条1項により、祖母・房子(明治天皇第7皇女子周宮房子内親王)や母、妹とともに皇籍離脱。以後は、「北白川 道久(きたしらかわ みちひさ)」と名乗る。1960年(昭和35年)に学習院大学政経学部卒業後、東京芝浦電気に入社、東芝国際交流財団専務など歴任し、2000年(平成12年)に定年退職[2]。1959年(昭和34年)秋、ミッチー・ブームの最中、お妃候補と目されていた妹の肇子が島津忠広と婚約。この際、道久を通じて、恋愛結婚と言えないまでも二人の交友があったと報じられた[3]。また北白川一家は、挨拶に訪れた正田富美子、美智子(現在の上皇后美智子)親子を親しく歓待している[4]。なお、道久自身も忠広の妹である慶子と結婚した。2001年(平成13年)4月、伊勢神宮の大宮司に就任。2005年(平成17年)11月15日、紀宮清子内親王(現・黒田清子)の結婚式において、斎主を務めている。2007年(平成19年)7月に退任。2011年(平成23年)6月4日付けにて神社本庁統理に就任した[5]。霞会館理事長(2007年5月30日 - 2018年[6])の他、学習院の同窓会である学習院桜友会理事[7]、中等科・高等科桜友会会長[8](2008年3月1日 - 2018年[9])、日本会議顧問[10]などを務めた。2018年(平成30年)10月20日16時、急性肺炎のため死去。81歳没[11]。男子がいないため、北白川家は男系としては断絶した。 家族島津忠承の3女・慶子夫人との間に3人の女子があり、うち2人が徳仁親王の「お妃候補」であるとマスコミに報じられたことがある[12][13]。
北白川宮系図 伏見宮系図
明治天皇系図
脚注
参考文献 |
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