南西戦線 (ソ連軍)
南西戦線(ロシア語: Юго-Западный фронт、南西方面軍、もしくは南西正面軍とも)は、第二次世界大戦中(独ソ戦初期と中期)に2度に渡りソ連南西部に設置された赤軍の方面軍級部隊。 第1編成(1941年6月~1942年7月)最初の南西戦線は、1941年6月22日、キエフ特別軍管区(第5軍、第6軍、第12軍、第26軍)に基づき創設された。事後、第3軍、第9軍、第13軍、第21軍、第28軍、第37軍、第38軍、第40軍、第57軍、第61軍、第8航空軍が配属された。 1941年の国境会戦時、戦線部隊は、優勢なドイツ南方軍集団と交戦し、ドゥブノ、ルーツキー、ロヴノ郊外の戦車戦で敵に損害を与え、その前進を遅滞させた。7月中旬、キエフ郊外で敵を停止させ、7月後半~8月初め、南部戦線と協同で、右岸ウクライナのソ連軍を撃破しようとする敵の意図を破砕した。 1941年9月~10月、南西戦線は、クルスク、ハリコフ、イジューム東方まで退却した。12月、戦線右翼がエレツク作戦を行い、1942年1月、南部戦線と協同でバルヴェンコ・ロゾフ作戦を行い、100kmを前進し、北ドネツ右岸に橋頭堡を確保した。 1942年7月12日、同日付の最高司令部スタフカの命令に基づき、南西戦線は解散された。隷下部隊の第9軍、第28軍、第57軍は南部戦線に、第21軍と第8航空軍はスターリングラード戦線に配属された。 編制
指揮官司令官:
軍事会議議員:
参謀長:
第2編成(1942年10月~1943年10月)2度目の南西戦線は、1942年10月25日、10月22日付最高司令部スタフカの命令に基づき、第21軍(後に第1親衛軍)、第63軍(後に第3親衛軍)、第5戦車軍、第17航空軍から編成された。事後、第5打撃軍、第6軍、第12軍、第46軍、第57軍、第62軍(後に第8親衛軍)、第3戦車軍、第2航空軍が配属された。 1942年11月、戦線部隊は、スターリングラード戦線及びドン戦線と協同で、スターリングラード郊外で反攻に転じ、ドイツ軍を包囲した。同年12月、ヴォロネジ戦線の支援の下、スレドニェドン作戦を実施し、敵のスターリングラードの包囲解除の試みを最終的に破砕した。 1943年1月、戦線の一部部隊が、オストロゴシュク・ロッソシャン作戦に参加し、南部戦線と協同でドンバス方面で攻勢を展開した。戦線部隊は、北ドネツを強行渡河し、200~280km前進した。2月19日までに、ドニエプロペトロフスクへの接近経路に進出したが、ドイツ軍の反攻により、3月初めまでに北ドネツに退却した。1943年8月~9月、南西戦線は、南部戦線と共同で、ドンバス戦略作戦を実施し、ドンバスを解放した。同年10月、戦線部隊は、ザポロージェ作戦を行い、ドニエプル左岸の敵橋頭堡を撃滅し、ザポージェを解放した。 1943年10月20日、10月16日付最高司令部スタフカの命令に基づき、南西戦線は、第3ウクライナ戦線に改称された。 編制
指揮官司令官:
軍事会議議員:
参謀長:
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