司馬力弥

司馬力弥(しば りきや、1882年明治15年)[1]-1954年昭和29年)年11月28日[2])は、長万部アイヌ首長。

人物

アイヌ名はペペンレック[1]、へペンレック[3]。長万部アイヌの第5代首長であった。温和な性格ながら腕力に優れ、部落での相撲や力比べでは敵なしだった。鮭漁期には五尺の丸木舟を家から5km離れた川まで運んだ。舟や網作りも上手だった。の穴や通路、和人からの情報などについて記憶力が良く、人々から信頼されていた。絶対的な権力を振るうことができた先代までと異なり、知力と体力で信頼を得ることが必要とされた時代だったが、それに応じて同族をよくまとめた。礼文華虻田国縫八雲のアイヌとも協力し、子弟の教育や和人との融和、就労確保や経済の向上に努めた[1]。子はなく、和人の養子夫婦を迎えた[4]。遺品の大部分は長万部郷土資料館に寄贈された[2]

事績

  • 1918年9月1日、父・リキンテら長万部アイヌとともに熊祭りを行った[5]
  • 1919年から始まった長輪線(室蘭本線)の工事に際し、道案内、仮道作り、測量などに大きく貢献した[1]
  • 1931年、アイヌ文化展示施設「エカシケンル」の設立に携わる[6]
  • 1935年8月5日寿都町熊送りを執り行う(同年時点では寿都町内にアイヌなし)[7]
  • 1936年、村社の大祭に際し破損が著しかった村道の修理を呼び掛け、神輿の渡御を可能にした[8]
  • 1936年10月25日岩内町で熊送りを執り行う(同年時点では岩内町内にアイヌなし)[7]
  • 1937年7月4日まで行われた第3回港まつりにおいて、函館公園と新川町税務署構内にて熊送りを執り行う[8]
  • 1939年1月29日、長万部村川向でエカシケンル保存会主催の熊送りを執り行う[8]
  • 1943年12月8日飯生神社で戦勝祈願のカムイノミを行う[9]
  • 1949年5月11日、函館さくら祭に招かれ、函館市民グラウンドで熊祭の祭儀を行う。当日は霊魂を昇天させるところまでで打ち切られ、アイヌらは熊の頭部を持ち帰って翌日に旭浜で残りの祭儀を行った。長万部町のアイヌが行った熊送りはこれが最後という[3]
  • 1950年4月17日NHK函館放送局にて、野地アキ、司馬フユとともにアイヌ歌謡を録音する[3]

親族

  • 曾祖父 - モナシリ:国縫の乙名。沙流にも並ぶもののいない偉い人だったという[10]
  • 祖父 - チャンレキ:長万部アイヌ首長[10]
  • 父 - リキンテ(リキンデ[11]、司馬力八)(1848年嘉永元年)12月16日 - 1925年大正14年)6月14日[12]):長万部アイヌの第4代首長[1]山越郡長万部村川向生まれ、当地に住んだ[12]。番屋の飯炊を6年間務めたことがあり、会所からは正直の廉で度々賞された[10]
  • 母 - シニサツ[3](司馬サリ[12]):『長万部民報』に江戸期の南部陣屋について語った[3]
  • 妻 - 司馬ハル(1882年(明治15年)3月9日 - ):山越郡長万部村生まれ、同村旭浜に住んだ[12]。和人の子だったが、幼いときに司馬家の養子となる[4]。父・度助は長万部アイヌ第3代首長[1]
  • 弟 - 司馬力作(1893年(明治26年)11月12日 - 1953年(昭和28年)2月17日):リキンテとサリの四男。長万部村旭浜生まれ、当地に住んだ[12]吉田巌の教え子であった[13]
  • 従弟 - シアンレㇰ(江賀寅三):長万部村紋別生まれ。キリスト教伝道師、北海道アイヌ協会設立時の理事[11]
  • 養子 - 司馬菊正(1924年(大正13年)[14]-):和人。旧姓は五十嵐。町会議員を務める[4]。子の名前は全て力弥が付けた[2]
  • 孫 - 司馬哲也:長万部アイヌ協会会長[5]

脚注

  1. ^ a b c d e f 北海道新聞社『北海道大百科事典』北海道新聞社、1981年8月https://dl.ndl.go.jp/pid/12191907 
  2. ^ a b c 大島稔 (1994.3.). “平成5年度アイヌ民族文化財調査報告書”. アイヌ民俗調査XIII II 平成5年度調査報告(長万部地方) (北海道教育委員会) (6). https://barrel.repo.nii.ac.jp/records/4162. 
  3. ^ a b c d e 長万部町史編集室 編『長万部町史』長万部町、1977年10月https://dl.ndl.go.jp/pid/9537558 
  4. ^ a b c 掛川源一郎『大地に生きる : 北海道の沖縄村 掛川源一郎写真集』第一法規出版、1980年10月https://dl.ndl.go.jp/pid/12429653 
  5. ^ a b 大坂拓・大矢京右 (2023.3.). “市立函館博物館が所蔵する噴火湾アイヌの木幣について”. 北海道博物館アイヌ民族文化研究センター研究紀要 (北海道博物館アイヌ民族文化研究センター) (8): 35-58. https://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/wp-content/uploads/2025/01/bulletin_ACRC_vol8_03_p035_058.pdf. 
  6. ^ 日高管内図書館振興協議会 編『日高管内公共図書館(室)アイヌ関係資料所蔵目録 昭和58年8月15日現在』日高管内図書館振興協議会、1983年10月https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12143328 
  7. ^ a b “渡島半島のアイヌ社会と民具資料収集者の視野―旧開拓使函館支庁管轄地域を中心として”. 北海道博物館アイヌ民族文化研究センター研究紀要 (北海道博物館アイヌ民族文化研究センター) (5): 47-80. (2020.3.). https://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/wp-content/uploads/2025/01/bulletin_ACRC_vol5_03_p047_080.pdf. 
  8. ^ a b c 大坂拓・小川正人 (2020). “アイヌ文化展示施設「エカシケンル」関連の新資料―2019年度新収蔵資料の紹介―”. 北海道博物館アイヌ民族文化研究センター研究紀要 (北海道博物館アイヌ民族文化研究センター) (5): 191-222. https://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/wp-content/uploads/2025/01/bulletin_ACRC_vol5_06_p191_222.pdf. 
  9. ^ 小川正人 (1995-3). “研究ノート 第二次世界大戦期における「戦勝祈願」のカムイノミをめぐって”. 北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要 (北海道立アイヌ民族文化研究センター) (1): 123-138. https://dl.ndl.go.jp/pid/4428324. 
  10. ^ a b c 吉田巖 著、帯広市教育委員会社会教育係 編『東北海道アイヌ古事風土記資料 第3篇 (帯広市社会教育叢書 ; 第3)』帯広市教育委員会、1957年https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9541929 
  11. ^ a b 江賀寅三『アイヌ伝道者の生涯 : 江賀寅三遺稿』北海道出版企画センター、1986年10月https://dl.ndl.go.jp/pid/12253211 
  12. ^ a b c d e 『エカシとフチ』編集委員会 編『エカシとフチ : 北の島に生きたひとびとの記録』 別冊』札幌テレビ放送、1983年12月https://dl.ndl.go.jp/pid/12145296 
  13. ^ 吉田巖『アイヌよもやまばなし』帯広市教育委員会、1966年https://dl.ndl.go.jp/pid/9545161 
  14. ^ 選挙ドットコム 長万部町議会議員選挙”. 2025年5月14日閲覧。
Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

Portal di Ensiklopedia Dunia

Kembali kehalaman sebelumnya