唐仁大塚古墳
唐仁大塚古墳(とうじんおおつかこふん、唐仁1号墳)は、鹿児島県肝属郡東串良町新川西にある古墳。形状は前方後円墳。唐仁古墳群(国の史跡)を構成する古墳の1つ。 鹿児島県では最大、九州地方では第3位の規模の古墳で[注 1]、4世紀末(古墳時代中期初頭)頃の築造と推定される。 概要
鹿児島県東部、大隅半島東岸の志布志湾沿岸部の、肝属川の下流左岸の旧期砂丘帯(大塚砂洲)上に築造された大型前方後円墳である[2]。この地域では約130基の古墳で構成される大規模な唐仁古墳群の築造が知られ、古墳群中最大の本古墳はその中心的位置づけにある[2]。現在は墳頂に大塚神社が鎮座し[3]、1992年(平成4年)には墳丘の測量調査が実施されている[2]。 墳形は前方部が未発達の柄鏡形の前方後円形で[4]、前方部を南方に向ける。現在に段築は見られないが[2]、墳丘は3段築成とされる[3]。墳丘長は約140メートル(近年の文献では154メートル)を測り、鹿児島県では最大、九州地方では第3位の規模になる[注 1]。墳丘外表では葺石が認められるが、埴輪は見つかっていない[2]。墳丘周囲には周濠が巡らされており、周濠を含めた古墳総長は185メートルに及ぶ[3]。埋葬施設は竪穴式石室で、後円部墳頂の大塚神社の下には石室の蓋石5枚が露出する[3]。石室は墳丘主軸と平行方向とし、長さ3.6メートル・幅1.2メートル・高さ0.85メートルを測り、その内部に長さ2.75メートル・幅0.87メートルの砂岩製舟形石棺が据えられていた[3]。この石室からは横矧板鋲留短甲などが検出されている[2][5]。また竪穴式石室以外の埋葬施設として、竪穴式石室とは直交方向の箱式石棺1基も認められている[3]。 この唐仁大塚古墳は、古墳時代中期初頭の4世紀末頃の築造と推定される[4][3]。唐仁古墳群は大塚古墳を契機として営造が始まっており、1号墳(大塚)→100号墳(役所塚)→16号墳(薬師堂塚)の順で首長墓系譜をなす[4]。また南九州地方では、生目古墳群(宮崎県宮崎市)に後続し、西都原古墳群(宮崎県西都市)の男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳に先行する盟主墳に位置づけられ[1]、築造当時としては九州地方で最大規模の古墳になる[4]。 大塚古墳含む唐仁古墳群の古墳域は、1934年(昭和9年)に国の史跡に指定されている[6]。なお、唐仁古墳群の北方では大型前方後円墳の横瀬古墳(大崎町、墳丘長132メートル)の所在が、南方では日本最南端の前方後円墳を含む塚崎古墳群(肝付町)の分布が知られる[7]。 遺跡歴
墳丘墳丘の規模は次の通り[4]。
墳丘長に関しては1992年(平成4年)の測量調査では現況140メートルとされるが、墳端の削平を考慮して推定復元154メートルとする説が挙げられており[5]、近年の文献ではこの値が散見される[1][4]。
脚注注釈 出典 参考文献(記事執筆に使用した文献)
関連文献(記事執筆に使用していない関連文献)
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