土支田八幡宮
土支田八幡宮(どしだはちまんぐう)は東京都練馬区土支田にある神社[1]。 歴史社伝によれば、1192年(建久3年)の創祀とされている[2][3]。 この地域は江戸時代には土支田村は上下二つの組に分かれており、下組には俵久保という地名があった[4]。そのため江戸時代には「俵久保(たわらくぼ)の天神様」として住民から親しまれてきた。これは社が「天神」あるいは「天神社」と呼ばれていたことに由来する[5]。1874年(明治7年)土支田村内にあった八幡宮・神明社・稲荷社の3社を合祀し「北野神社」と社名を改めた[2][5]。1947年(昭和22年)3月24日に社名を現在の「土支田八幡宮」とした[2]。また、戦後の農地解放により農地七反を失った[2]。 ![]() 1966年(昭和41年) 御神木である「伊賀の松」が切り株を残し伐採された。これは篠塚伊賀守時成(篠塚重広)が戦勝を祈願して植えたものとされていたが、同年落雷により倒木が危ぶまれたため伐採となった[2][3]。 ![]() 1911年(明治44年) 正参道入口の井戸に、宮司の島義武が南極から持ち帰った氷を入れた。島義武は、白瀬大尉の南極探検隊に事務長として参加した。この井戸は南極井戸と呼ばれている[3]。 境内境内はおもに社務所、参集殿、額殿、手水舎と4つの末社からなる[2][3]。梅鉢の紋がデザインされた石鳥居は明治11年(1878年)12月に建造されたもので、練馬区内の石鳥居に多い形のうちのひとつである明神形が当てはまる[6]。境内の本殿は木造流造、幣殿・拝殿は木造入母屋造になっている[2]。半鐘は延亨3年(1746年)のもので[7]、社務所は昭和57年(1982年)に新築された[2]。 境内社境内社の灯籠には文化13年(1816年)、明治15年(1882年)造のものがある[8]。
石造物その他文化財
祭神境内神社年中行事交通アクセス
脚注
|
Portal di Ensiklopedia Dunia