大ミサ曲
大ミサ曲 ハ短調 K. 427 (417a) は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した未完成のミサ曲。資料によって「ミサ曲ハ短調」や「ハ短調ミサ曲」とも呼ばれる。また一連のミサ曲において17番目に当たることから「ミサ曲 第17番」と表記される場合もある。モーツァルトの宗教音楽では、レクイエムに次いで有名な曲である。 概要この曲はモーツァルトの作品としては珍しく、注文を受けずに自発的に作曲された。1782年8月4日にモーツァルトはウィーンのシュテファン大聖堂でコンスタンツェ・ウェーバーと結婚したが、故郷ザルツブルクにいる父レオポルトの許可を得ないままであった。モーツァルトはこの曲を作ることによって、結婚の誓約が確かなものであることを証明し、妻が技量のあるソプラノ歌手であることをアピールするつもりであったという[1]。 全体は未完のまま残されており、「キリエ」、「グローリア」、「サンクトゥス」、「ベネディクトゥス」はすでに完成されている。「クレド」は前半部分が未完の形で残されており、その第1部(クレド・イン・ウーヌム・デウム)は合唱とバスのパートが、続く第2部(エト・インカルナトゥス・エスト)は声楽部と管楽とバスが完成されている。しかしそれに続く「クルシフィクス」は書かれておらず、「アニュス・デイ」に至っては冒頭のみで欠落している。このためモーツァルトの没後になってから補筆が行われることになり、後述する下記のロビンス・ランドン版やバイヤー版などが存在する。未完に終わった理由としては、ザルツブルク時代と異なり規模の規制[2]が無いまま作曲し、典礼にふさわしくないほど大規模になっていった結果として創作意欲を喪失してしまったためと考えられている[3]。 本曲は、確認されている限りモーツァルトが作曲した最後のミサ曲であり、モーツァルトは以降、ミサ曲を書く機会を得ないまま亡くなったと考えられていたが、20世紀後半になって自筆譜の分析が進み、従来マンハイム時代に書かれたと推測されていた「キリエ」「グローリア」などのミサ曲のスケッチがウィーン定住後の1780年代後半のものと判明し[4]、教会での定職を求めてミサの作曲を続けていたと推測されるようになった。そして、死後発見されたミサの断章『キリエ ニ短調(K.341)』は最晩年の1791年頃にシュテファン大聖堂楽長レオポルト・ホフマンの補佐に任命されたのち、次期楽長就任時の演奏を目論んで書いたと推測されている(ただしホフマンが重病から回復し、楽長就任の見込みが無くなったためこの曲のみで放棄されたと考えられる)。 自筆譜は、ポーランド・クラクフのヤギェウォ大学ヤギェウォ図書館に所蔵されている。 作曲と初演以前までは作曲の時期が不明な点が多くあって判明できていなかったが、近年になって1782年末から1783年にかけて作曲されたものと判明している。1783年1月4日付の父レオポルトに宛てた手紙の中で以下のようにしている。
上記の概要にある通り、頑なに結婚を許可しなかった父や姉に対して何とか軟化させようと目論んで自発的に作曲したことが理由だが、モーツァルトがこのように自発的に作曲するということは非常に珍しいことであった(後の『レクイエム』は貴族からの委嘱で作曲されたものである)。 このような事情で、妻を連れてザルツブルクへ行く際にこの曲を持って行き、故郷の教会に奉献しようと考えて作られたといわれる。しかし一度はその年の11月に行く計画を立てたものの、コンスタンツェの妊娠など種々の事情でザルツブルクへ行けず実現できなかったが、ザルツブルクに帰郷できたのは結婚して翌年(1783年8月)のことであった。だがこの時点ではまだ完全にできておらず、完成していたのは「キリエ」、「グローリア」、「サンクトゥス」、「ベネディクトゥス」の部分のみであった。初演後の10月27日にザルツブルクを発ってウィーンに向かい、再び着手したものの、結局完成させることはなかった。 初演は1783年10月23日に試演された後、26日(多くの資料によっては10月25日、8月26日とある)にザルツブルクの聖ペテロ教会にてモーツァルトの指揮で行われた。この時に妻コンスタンツェはソプラノのパートを担当している。この初演においてモーツァルトは以前作曲したミサ曲の一部を転用して演奏したと考えられている。 編成と構成![]() 編成
構成以下の5曲(アニュス・デイを除く)から構成される。現在演奏される版の演奏時間は50分ないし60分ほど。アメリカの音楽学者のロバート・レヴィンの完成版は全曲74分ほど。 第1曲 キリエ(Kyrie)
第2曲 グローリア(Gloria)
第3曲 クレド(Credo)
第4曲 サンクトゥス(Sanctus)
第5曲 ベネディクトゥス(Benedictus)
アニュス・デイ(Agnus Dei)
未完成のままの補筆版この曲にはレクイエム同様に複数の補筆版が作成されているが、一部を補いつつも、あくまで未完成のままにしてあり、この形態で演奏されるのがほとんどである。主なものとして、ロビンス・ランドン版(1956年)、新全集に採用されたエーダー版(1986年)、モーンダー版(1988年)、バイヤー版(1989年)などがある。 補筆による完成版旧モーツァルト全集に採用されたドレスデンの指揮者でもあるシュミット版(1901年)は、レクイエム同様キリエの一部をアニュス・デイに転用し、他の宗教曲の素材も用いて補筆した完成版となっている。 これまでにモーツァルトの協奏交響曲K.297bやレクイエムの補筆を行ってきた音楽学者・ピアノ・即興フォルテピアノ奏者のロバート・レヴィン(Robert D. Levin)は、マリア&ロバート・A・スカーニック・ファンドの依頼により、未完の部分を全て補った補筆完成版を作成した。このレヴィン版は2005年1月15日に、補筆に協力したヘルムート・リリングの指揮によりカーネギー・ホールで初演した。この補筆完成版には『悔悟するダヴィデ』(後述)やモーツァルトの他のミサ曲などから素材が転用されており、補筆されたのは以下の7曲で、全曲演奏すると76分ほど。
オラトリオ「悔悟するダヴィデ」オラトリオ『悔悟するダヴィデ』(かいごするダヴィデ, Davide penitente)K.469は、1785年にモーツァルトが大ミサ曲ハ短調を転用して作ったカンタータ。3月13日にウィーンのブルク劇場で初演された。ミサ曲のキリエとグローリアにイタリア語の歌詞を付けてリズムを改変し、2つのアリアを新しく追加している。 作詞は長く『フィガロの結婚』などの台本作者ロレンツォ・ダ・ポンテと思われていたが、2008年になってイタリアの著述家サヴェリオ・マッテイ(1742年–1795年)の『聖書の詩篇集 Libri poetici della Bibbia』であることが判明した[5][6]。モーツァルトは、マッテイが翻訳した詩篇から、第4、6、7、33、67、96、99、119編 (ウルガタ訳)を用いている。 内容脚注
参考資料書籍
関連項目
外部リンク
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