大久保忠素
大久保 忠素(おおくぼ ただもと、1894年2月10日 - 没年不明[1])は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。松竹キネマおよび松竹蒲田撮影所の創生にかかわり、小津安二郎の唯一の映画監督としての師であることでも知られる[1]。 人物・来歴1894年(明治27年)2月10日、東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)に生まれる[1]。 明治大学文科を卒業後、有楽座の舞台監督を務める。1920年(大正9年)6月、松竹蒲田撮影所に入社。ヘンリー・小谷、野村芳亭に助監督として師事する[1][2]。1922年(大正11年)、監督に昇進する。同年に斎藤寅次郎が入社、1926年(大正15年)に小津安二郎が撮影助手から異動し、それぞれ大久保の助手となる。伊藤大輔がオリジナルシナリオを書き下ろした『地蔵物語』が監督昇進3作目にして大ヒットとなる[1]。1924年(大正13年)、プロスペル・メリメの『カルメン』を原作として監督した『灼熱の恋』で、カルメンを演じる五月信子がホセを演じる勝見庸太郎に身を委ねるシーンが検閲により削除される。 1927年(昭和2年)2月には、映画を批判する文壇人に対抗する映画実際家連盟「友達の会」に参加[3]。映画界の地位向上にも貢献した。 1930年(昭和5年)、牛原虚彦監督の『進軍』に「進行部長」としてクレジットされているが[4]、これは現在でいう「製作部長」である。このころから監督業からは引退し、製作サイドの管理職に回った[1]。 第二次世界大戦終結後、清水宏の「蜂の巣プロダクション」に関わり[1]、1952年(昭和27年)10月23日に新東宝が公開した同プロダクションの映画『大仏さまと子供たち』に監督の清水や助監督の関沢新一、あるいはプロデューサーの宮内義治らとともに「製作同人」として名を連ねている[5]。 その後は引退し、京都に移り住んだ[1]。没年は不詳である[1]。 フィルモグラフィ特筆以外はすべて監督である。 松竹蒲田撮影所
蜂の巣プロダクション
参考書籍註外部リンク
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