大内照子
大内 照子(おおうち てるこ、1918年11月15日 - 没年不詳)は、日本の女優である[1][2][3]。本名、大内 幸香(おおうち ゆきこ)[1]。 人物・来歴1918年(大正7年)11月15日、愛媛県伊予郡砥部町大字原町に生まれる[1]。4歳上の兄に俳優の大内弘(本名・大内一郎)がいる[4][5]。 1936年(昭和11年)3月、愛媛県立松山高等女学校(現在の愛媛県立松山南高等学校)を卒業すると同時に、兄の在籍するマキノ正博の新会社マキノトーキー製作所に入社する(第二期入社)[1][2][3][6]。同年4月29日に公開された根岸東一郎・マキノ正博共同監督による『加賀見山』に出演して、満17歳で映画界にデビューした[2][3][7]。同社は1937年(昭和12年)4月末には解散しており、葉山純之輔や兄の大内弘ら大半の俳優は新興キネマ京都撮影所(現在の東映京都撮影所)に移籍、マキノ正博、澤村國太郎、光岡龍三郎、照子と同期の水原洋一、田村邦男、團徳麿、志村喬、大倉千代子、大久保清子らは日活京都撮影所に移籍していくが[6]、照子は、同社跡地に、甲陽映画から独立して今井理輔が設立した「今井映画製作所」に移籍した[1][2][3]。同社での照子の出演記録は、児井英男(のちの映画プロデューサー児井英生)監督の『海の大将軍』以外は不明であるが[2]、同社も翌1938年(昭和13年)春には解散した[8]。 1939年(昭和14年)春ごろまでに、大阪府南河内郡古市町白鳥園(現在の同府羽曳野市翠鳥園)の極東キネマに入社、同社が製作・配給するサイレント(解説版)の剣戟映画に出演する[2][3]。同社での出演記録は、1940年(昭和15年)7月11日に公開された高田博文監督の『塙團右衛門』が最後であり[2][3]、同社は翌年、大宝映画を経て東宝映画に統合されていく。東宝映画、あるいは他社での出演歴はない[2][3][9]。時代は第二次世界大戦に突入し、その後の消息はわからない。没年不詳。 フィルモグラフィすべてクレジットは「出演」である[2][3]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[10]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 マキノトーキー製作所初期の特筆以外すべて製作・配給は「マキノトーキー製作所」である[2]。
今井映画製作所すべて製作は「今井映画製作所」、配給は「東宝映画」である[2]。 極東キネマすべて製作は「極東キネマ古市白鳥園撮影所」、配給は「極東キネマ」である[2]。すべて「解説版」のサイレント映画である[2]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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