停車場・施設・接続路線(廃止当時)
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国鉄:日豊本線
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0.0
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豊前善光寺駅
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2.2
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城駅
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4.1
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豊前四日市駅
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5.9
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新豊川駅
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第1駅館川橋梁 駅館川
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7.7
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拝田駅 [1][2]
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8.3
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鷹栖観音駅
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第2駅館川橋梁
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10.7
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三又川駅
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12.0
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香下神社前駅
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香下駅
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第3駅館川橋梁
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14.4
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円座駅 [1][2]
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15.5
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豊前二日市駅
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豊州線(ほうしゅうせん)は、かつて大分県宇佐郡高家村の日本国有鉄道(国鉄)日豊本線豊前善光寺駅から同郡四日市町の豊前四日市駅を経て同郡東院内村の豊前二日市駅までの間(走行区間はすべて現・宇佐市)を結んでいた、大分交通の鉄道路線である。当初から経営は苦しく、少ない客貨の輸送量の上に自動車の攻勢と久大本線の開通で収入は減少、さらに自然災害にも苦しめられた。元々、玖珠郡玖珠町まで路線を延ばす予定であったが、経済的理由から放棄された。累積赤字を抱えバス代行にした矢先のルース台風の被害により廃止を迎えた。
路線データ
1932年(昭和7年)12月当時
運行概要
1932年12月改正当時
- 列車本数:豊前善光寺 - 豊前二日市間11往復(他、朝に豊前善光寺 - 豊前四日市間1往復)
- 所要時間:全線55 - 69分
1950年(昭和25年)5月改正当時
- 列車本数:豊前善光寺 - 円座間6往復
- 所要時間:全線76 - 78分
歴史
豊州線は国鉄四日市駅(豊前善光寺駅)を起点とし高家、八幡、四日市町、豊川、両川を経て安心院村までの軽便鉄道を敷設し将来は日出生台陸軍演習場[4]に延長することを地元有志が立案したことがはじまりであった。1911年(明治44年)7月に鉄道免許状が下付されたので会社設立に向け株式募集をすすめた。1912年(明治45年)5月28日創立総会を開催し、名称を日出生鉄道、資本金を30万円として初代社長には水之江文二郎[注釈 1]が就任することになった。1913年(大正2年)2月15日に着工となり、1914年(大正3年)3月に注文していた機関車2両、客車2両、貨車8両が到着すると工事列車に使用した。3月31日に新豊川まで完成したので鉄道院の竣工監査を合格すると5月に四日市- 新豊川間が開業となった。その後延伸開業を繰り返し1922年(大正11年)2月に豊前二日市まで開通したが安心院村までの敷設免許は失効した。しかし経営は苦しく[注釈 2]社長交替や減資を繰り返した。1926年(大正15年)に乗合自動車に対抗するべくガソリンカーを導入し増発するもの経営は好転せず、さらに1929年(昭和4年)12月久大線豊後森駅開業により日出生台行きの貨物は皆無となった。
そんな状況のなか社長に就任したのは当時相模鉄道の社長であった南俊二であった。南は1929年(昭和4年)4月に社長に就任すると豊州鉄道と社名を変更し、軌間を国鉄と同じ1067mmにするため資本金を50万円[注釈 3]にして再建に乗り出すことになった。じつは南俊二の狙いは「ハイリスクを承知で不振企業に照準を合わせ、最安値で株式を取得し経営権を握り、強引に整理を推進し株価急回復後に売り抜けて短期間に極大の利鞘を狙う[6]」ことであった。ところが不況で思うようにはいかず南の投資は失敗に終わり、1931年(昭和6年)1月に社長を退任[注釈 4]。豊州鉄道は同年上期に債務不履行のため債権者である日本勧業銀行より競売に付せられることになった。ところがわずか11万円と評定されたため整理を図り[注釈 5]、勧銀の債務額を除き借入金及び未払金を桐田益夫ら旧重役3人で弁済することになった。前任の日出生鉄道社長の桐田が復帰したがまもなく過労と心労から死亡し、後任社長は京王電気軌道取締役で四日市町出身の渡辺孝が就くことになった。
年表
駅一覧
豊前善光寺駅 - 城駅 - 豊前四日市駅 - 新豊川駅 - 拝田駅[1][2] - 鷹栖観音駅 - 三又川駅 - 香下神社前駅 - 香下駅 - 円座駅[1][2] - 豊前二日市駅
接続路線
輸送・収支実績
年度
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乗客(人)
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貨物量(トン)
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営業収入(円)
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営業費(円)
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益金(円)
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その他益金(円)
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その他損金(円)
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支払利子(円)
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政府補助金(円)
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1914 |
63,597 |
1,179 |
5,550 |
6,355 |
▲ 805 |
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1915 |
106,625 |
1,698 |
14,605 |
8,222 |
6,383 |
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検査の結果7,919 |
1,559 |
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1916 |
128,765 |
4,847 |
15,955 |
13,269 |
2,686 |
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31,823 |
18,292
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1917 |
156,647 |
8,777 |
24,616 |
21,924 |
2,692 |
|
|
28,673 |
14,073
|
1918 |
141,194 |
8,528 |
39,407 |
17,983 |
21,424 |
不明借受金206 |
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16,766 |
9,218
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1919 |
206,204 |
10,680 |
49,386 |
40,222 |
9,164 |
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雑損金705 |
21,978 |
16,499
|
1920 |
236,850 |
10,757 |
70,102 |
67,382 |
2,720 |
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雑損金337 |
22,455 |
16,629
|
1921 |
247,708 |
12,694 |
78,422 |
55,153 |
23,269 |
|
|
|
9,439
|
1922 |
254,617 |
15,221 |
86,281 |
58,818 |
27,463 |
|
|
|
15,059
|
1923 |
250,892 |
15,067 |
83,863 |
52,195 |
31,668 |
|
雑損3,607 |
61,540 |
24,472
|
1924 |
237,351 |
14,414 |
80,099 |
48,468 |
31,631 |
|
雑損45 |
63,829 |
8,161
|
1925 |
197,388 |
11,625 |
65,115 |
53,610 |
11,505 |
|
雑損2,200 |
27,503 |
22,836
|
1926 |
149,110 |
13,214 |
56,001 |
51,961 |
4,040 |
|
雑損2,650 |
32,746 |
7,414
|
1927 |
166,422 |
12,149 |
50,226 |
44,609 |
5,617 |
|
雑損1,373 |
19,251 |
|
1928 |
163,322 |
11,382 |
47,803 |
41,230 |
6,573 |
|
雑損10,519 |
19,564 |
13,587
|
1929 |
158,374 |
10,965 |
54,887 |
38,577 |
16,310 |
|
雑損35,418 |
4,092 |
6,659
|
1930 |
123,433 |
8,262 |
34,631 |
33,857 |
774 |
|
|
1,093 |
|
1931 |
124,003 |
7,536 |
31,109 |
27,501 |
3,608 |
|
雑損500 |
1,132 |
|
1932 |
114,011 |
6,132 |
27,220 |
24,034 |
3,186 |
自動車305 |
|
1,014 |
|
1933 |
113,089 |
6,312 |
27,047 |
25,286 |
1,761 |
自動車465 |
|
163 |
|
1934 |
161,780 |
8,811 |
36,083 |
30,282 |
5,801 |
|
自動車3,393 |
23 |
|
1935 |
208,973 |
13,131 |
50,297 |
36,491 |
13,806 |
|
自動車2,614 |
8,845 |
|
1936 |
171,247 |
12,719 |
41,910 |
26,943 |
14,967 |
|
自動車3,882 |
9,133 |
|
1937 |
222,768 |
13,934 |
56,006 |
36,335 |
19,671 |
|
自動車8,478 |
9,053 |
|
1939 |
285,896 |
14,201 |
71,361 |
45,840 |
25,521 |
|
自動車1,154償却金12,100 |
9,622 |
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1945 |
388,064 |
4,737 |
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1950 |
387,162 |
4,836 |
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- 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道軌道統計年報各年度版
車両
- 機関車
- A1・A2 1913年ドイツハノマーグ製。1931年A2廃車
- A3 1922年枝光鉄工所製1931年廃車
- A10 1938年に耶馬渓鉄道2を購入。1913年ドイツコッペル製。当初はA15と付番されていた。
- C159 1947年に釜石製鉄所より購入。1935年本江機械製作所(立山重工業)製
- C11・12 1949年に栃尾鉄道より購入。1942-1943年本江機械製作所(立山重工業)製
- ケ95 1949年国鉄から払下げられた1921年大日本軌道鉄工部製の元佐世保鉄道4。詳細は佐世保鉄道1号形蒸気機関車を参照。
- G101 1931年にガソリン機関車を導入したが能力不足の上故障がちで1939年廃車
- 客車
- ホハ1・2 1914年博多工作所製定員40人
- ケホロハ1、ケホハ3 1914年梅鉢鉄工所製。履歴はケホロハ1→ケホハ3(2代目)、ケホハ3→ケホロハ2→ケホハ4
- ケホハニ1 1917年梅鉢鉄工所製定員26人。1935年廃車
- ケコハ490-493、497-499、ケコハニ880-883 これらは松浦線で使用されていた客車を国鉄から払下げられた。ケコハ490-493、497-499は元佐世保鉄道ハ10、ホハ12-14、ホハ18・19、フハ20。ケコハニ880・883は元宇和島鉄道の客車
- ガソリンカー
- ジ1-3 1926年丸山車両製の単端式気動車1931年ジ1廃車。ジ2・3は客車化され1949年廃車
- ジ11・12 1931年雨宮製作所製
- ジ13 1935年宮谷鉄工所製。
代替交通
- 大交北部バス(善光寺駅 - 乙女・糸口 - 四日市)
- 大交北部バス(四日市 - 円座 - 二日市 - 安心院)
脚注
注釈
- ^ (1860年-1929年)1902-1903年衆議院議員。
- ^ 高利の借入金や株金払込金の延滞[5]。
- ^ 1928年6月に資本金3万円に減資していた。
- ^ 南は投資の失敗により相模鉄道株を手放し6月に相模鉄道社長も辞任している。
- ^ 機関車2両、ガソリンカー1両、客車2両、貨車10両を処分。
- ^ 3月にも掲載されている[23]。
出典
参考文献
- 『大分交通40年のあゆみ』大分交通、1985年、53-56頁
- 『大分県交通史』九州交通新聞社、1978年、99-100、112頁
- 『写真集 郷愁のローカル鉄道宇佐参宮線・豊州線』 大分合同新聞社
- 『鉄道廃線跡を歩くIV』pp.158 - 161所収 JTB 1997年
- 栗林宗人「大分交通豊州線廃止直前の客車について」「RAILFAN」No.575 2000年10月号
- 谷口良忠「帰らざる豊州鉄道」『鉄道ファン』No.207・208
関連項目
外部リンク
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