大國神社 (伊勢崎市)
大國神社(おおくにじんじゃ、大国神社)は、群馬県伊勢崎市境下渕名(しもふちな)にある神社。式内社であり、旧社格は郷社。 「第五姫宮(だいごひめのみや)」「五護之宮(ごごのみや)」とも[1]。 祭神主祭神 配祀神
合祀神 歴史創建社伝(明和年間(1764年-1772年)の大国五護宮縁起)・『伊勢崎風土記』によると、第11代垂仁天皇9年に風雨不順によって人々が苦しめられていたため、天皇は百済車臨を東国に派遣した[1][3]。車臨は当地に至り御手洗池で手を洗う大国主命と出会い、国家の難の平定を願った[3]。すると大国主命の姿はなくなり、その跡に淵が出来た(「渕名」の地名由来)[3]。その後天皇は車臨を賞し、当社を祀らせるとともに当地を与えたと伝えられる[3]。また垂仁天皇15年9月には、丹波国穴太郷から五媛の宮を勧請・合祀したという[3]。 一説に当社創建について、『上野国神名帳』の佐位郡項に「大国玉明神」と「郡玉明神(くにたまみょうじん、非現存)」の名が見えることから、国玉を「国司の神」、郡玉を「郡司の神」とみる説がある[4]。そして前者にあたる当社は、当地の郡司が「上毛野国造」の栄誉称号を与えられた際(後述)、新たに創建されたと指摘される[4]。この説では、檜前部老刀自(ひのくまべのおいとじ、檜前君老刀自)[原 1]が「上毛野佐位朝臣(かみつけのさいのあそん)」を賜姓[原 2]、のち「本国国造(上毛野国造)」の称号を与えられた記事から[原 3]、檜前部一族が佐位郡司であったと推測される[4]。併せて、当社北西方にあり佐位郡衙跡とも推測される十三宝塚遺跡(じゅうさんぽうづかいせき)との関係性も指摘されている[4]。 なお『和名抄』に見える「佐位郡淵名郷」は、当地に比定される[5]。 概史当社に関して、国史に記載はない[4]。社伝によると神護景雲元年(767年)、勅を奉じた佐位采女が社殿を修造したという[3]。 『延喜式神名帳』では「上野国佐位郡 大国神社」と記載され、式内社に列している。「佐位郡」と記載されるが、この郡は佐波郡(明治に佐位郡・那波郡を合併)の前身にあたる。 『上野国神名帳』では、一宮本に鎮守12社の12番目に「従一位大国大明神」、群書類従本では同じく鎮守12社の12番目に「従一位大国玉大明神」とあるが、総社本では鎮守10社に記載はない[4]。また、3本とも佐位郡項で「従一位大国玉明神」と記載する[4]。ただし、鎮守項・佐位郡項の両社を同一と見なすことには異論もあり、後者を当社として『延喜式神名帳』所載の神社を別に見る説もある[1]。 明治7年(1874年)、近代社格制度において郷社に列した[3]。また明治42年(1909年)に神饌幣帛料供進神社に指定された[3]。 神階
境内本殿は三間社流造で、千鳥破風軒唐破風付、銅板葺[3]。江戸時代の寛政5年(1793年)の造営という[3]。幣殿は昭和5年(1930年)の造営。拝殿は間口五間・奥行三間半で、文化元年(1804年)の造営[3]。 また、境内には石幢(せきどう:仏教の石塔の一種)が立つ。この石幢は「御手洗の石燈籠」とも呼ばれる[3]。室町時代、延徳2年(1490年)の銘があり[6]、付近の御手洗池畔から出土したと伝えられる[3]。総高は2.38メートルで、角石の台座の上に竿塔・中座・火袋・屋蓋・相輪と積み重ねられている[3]。室町時代の作風が見られ[3]、市の重要文化財に指定されている。 当社東北方には大国主命が手を洗ったという御手洗池跡が残る[1]。明治4年(1907年)に合祀されるまで、その地には御手洗神社が鎮座していた[1]。
摂末社
祭事
上記のように、秋祭では獅子舞が奉納される。この獅子舞は、昔は途絶えていたが昭和30年代に復活された[13]。獅子舞の流派は火挟流と言われる[3]。道具箱の銘から正徳元年(1711年)には整備されたと推測され、起源はこれ以前と考えられている[3]。この獅子舞は「下渕名の獅子舞」として、市の無形民俗文化財に指定されている[13]。 文化財伊勢崎市指定文化財現地情報所在地 周辺
脚注原典 出典
参考文献 |
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