大日本帝国海軍の旗章大日本帝国海軍の旗章(だいにほんていこくかいぐんのきしょう)は、大日本帝国の海軍において使用された旗章の一覧。大日本帝国憲法施行前の旗章も取り上げる。 以下、特記ない限り、1870年は明治3年太政官布告第651号、1889年は明治22年勅令第111号、1914年は大正3年勅令第11号、1932年は昭和7年勅令第359号に基づくものとする。また、終戦に伴う旗章の廃止は1945年で統一する。 戊辰戦争幕府海軍
藩の船旗(幕末)
戊辰戦争終結後日章旗
海軍旗海軍旗は、後の海軍旗章条例により海軍大臣旗に受け継がれた。
軍艦旗海軍御国旗は、日本の海軍における軍艦旗の初代とされる[14]。#日章旗を参照。 なお、江戸幕府の公儀軍艦印である中黒之旗の特性は軍艦旗にはあたらない。
皇室関連の旗1889年(明治22年)勅令第111号の海軍旗章条例以後、天皇旗は天皇乗御の艦船において大檣頂に掲げられた。天皇旗を掲げた艦船においては、区別旗旈(海軍大臣旗、将旗、代将旗及び先任旗)及び長旗はすべて降下された。 天皇旗を初めとして皇族に関する旗には全て菊花御紋章の意匠が用いられたが、海軍旗章条例以前は金の日章と銀の月章が使用された。これは錦の御旗に同じであり、これを西洋式にしたものである。 また、これら皇族に関する旗の扱いはすべて天皇旗に同じである。ただし、親王旗に関しては親王が親王の資格としてではなく、武官の資格として乗艦している場合には掲げられなかった。
海軍大臣旗海軍大臣旗は、海軍大臣が公務を帯びて乗艦した場合に掲揚された。掲揚位置は天皇旗に同じ。 将旗将旗は、将官が指揮権を帯びて乗艦した場合に掲揚された。海軍大臣旗を除く区別旗旈にはすべて8条旭日旗が用いられた(ただし、後の自衛隊旗とは異なっている。)。明治22年から大正3年までは、大将旗 - 少将旗の区別はなく、単に「将旗」と定められ、階級の違いは掲揚位置や紅球によって区別されていた。この当時の将旗の光線幅は11.25度、光線間隔は33.75度、光線数は8条とされた。 将旗及び代将旗は、司令長官又は司令官が初めて着任する時に掲揚し、解職により退去する時に撤去した。ただし、司令長官又は司令官に事故があり、その職務を執ることができないときは、その間は将旗又は代将旗は撤去された。 なお、縦横比はすべて2:3である。 大将旗大将旗の掲揚位置は天皇旗に同じ。
中将旗1889年(明治22年)から1914年(大正3年)当時は、中将旗は前檣頂に掲げられた。ただし、二檣以下の艦の場合は、風上の上隅に紅球1個を付した。
少将旗1889年(明治22年)から1914年(大正3年)当時は、少将旗は後檣頂に掲げられた。ただし、二檣艦の場合は前檣頂に掲げられた。二檣以下の艦の場合は、風上の上下隅に紅球1個を付した。大正3年以降は、中将旗に同じく前檣頂に掲げられることとなった。
代将旗代将旗は、司令官たる大佐(代将も参照)が指揮権を帯びて乗艦した場合に掲揚された。燕尾開裂は横の2分の1で上下は当分、縦横比は4:7と定められた。掲揚位置は天皇旗に同じ。 1870年(明治3年)から1889年(明治22年)までは白地の燕尾開裂旗に紅日章であった。縦横比は2:3で、燕尾開裂は横の3分の1とされていた。
先任旗先任旗は、同港内に2艘以上の軍艦が碇泊し、司令長官又は司令官が不在のときに、先任艦長がこれを後檣頂に掲げた。但し、二檣艦の場合は前檣頂に掲げられた。 なお、規格は先任旗に同じであり、白紅を反転させたものである。
海軍附属護送船旗
水先人旗
要招水先旗は、海軍艦船において水路嚮導者を要招するときに掲げられた。ただし、普通信号を以て水路嚮導者を要招するときは掲げられなかった。 当直旗
運送船旗運送船旗 は、海軍所属運送船および運送をする目的で傭役する船舶の大檣頂に掲げられた。ただし、海軍所属船舶において船長が海軍将校の場合は掲げられなかった。
軍用船旗軍用船旗は、海軍軍人が指揮する特設艦船の大檣頂に掲げられた。ただし、病院船は例外とされた。
病院船旗海軍軍医療旗章(軍医療廃止後は海軍病院旗章)は、戦時もしくは事変の際に海軍病院もしくは病院船が掲げた。また、病院附属の物品を運送する舟車などもこれを掲げた。1886年(明治19年)のジュネーヴ条約に日本が加盟したことで、1904年(明治37年)に赤十字旗へと改定された[16]。 海軍病院旗は、赤十字旗である。戦時もしくは事変の際に海軍病院もしくは治療所の旗竿または病院船の大檣頂に掲げられた。また、治療所または病院船用の物品を運送する舟車などもこれを掲げた。
工作船旗工作船旗は、海軍工廠所属の船舶など、工作のために軍用に供する船舶の大檣頂に掲げられた。 ここでの工作船とは、工作艦のことを指しており、同名の別名がある不審船とは異なる。
関連項目脚注出典
外部リンク
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