大板山たたら製鉄遺跡大板山たたら製鉄遺跡(おおいたやまたたらせいてついせき、英語:Ohitayama-tatara Iron Works[1])は、山口県萩市にある江戸時代の製鉄所跡である。国の史跡、世界遺産構成資産。 概要大板山たたら製鉄遺跡は、江戸時代中期から幕末にかけて断続的に操業していた製鉄所跡。大井川の支流である山の口川の上流部に位置しており、砂鉄を原料に、木炭を燃焼させて鉄を生産する日本古来の方法(たたら吹き)で製鉄していた。 本遺跡は山口県内最大級の規模を誇り、長州藩(萩藩)に展開した石見系たたら遺跡の典型的事例として、多くの遺構が良好に残っている貴重な遺跡とされる[2]。さらに、ここで生産された鉄は西洋式軍艦建造に用いられており、日本独自の製鉄技術が西洋式造船に役立てられた近代化の事例としてユニークである[3]。 1981年(昭和56年)に山口県教育委員会が行った採鉱冶金関係生産遺跡分布調査により遺跡の状況が明らかとなるが、1984年(昭和59年)に完成した山の口ダムにより遺跡域の南半分はダム湖底に水没[4]。ただし、北半分にあった高殿などの製鉄遺跡主要部分はそのまま残され、1988年(昭和63年)に山口県指定史跡となる。1990年 - 1996年(平成2年 - 8年)にかけて発掘調査及び保存整備事業が行われた。2012年(平成24年)9月に国の史跡に指定された。また、2009年にユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載された九州・山口の近代化産業遺産群の構成資産に含まれ、2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式登録された。 製鉄所の操業中国山地は、原材料である良質な砂鉄と、炭の原料となる木材が豊富に産出されるため、古来より製鉄が行われていた。特に天秤ふいごが発明された江戸時代になると、中国地方での鉄の生産は一層盛んとなった。 大量の炭木を消費するたたら製鉄では、長期間の操業によって周囲の山を切り尽くしてしまうため、一ヶ所で長期的に操業することは出来ない。そのため、製鉄の職人たちは集団で別の製鉄所に移動し、数十年の間隔をあけて山林が回復した頃に戻ってくるというサイクルを繰り返すことになる[4]。長州藩最大の製鉄所であったこの大板山たたら製鉄所では、以下の3回の操業があったとされる[2][3][4]。
このうち、最後の幕末期の操業で生み出された鉄は、恵美須ヶ鼻造船所跡で建造された長州藩初の西洋式軍艦「丙辰丸」の材料に供給されている[2][3][4]。 大板山たたら製鉄所で使われる砂鉄は、石見国浜田から北前船により海路で阿武郡奈古の港に陸揚げされ、そこから「鉄の道[4]」と呼ばれる陸路を馬で大板山まで運搬された[2]。鉄の道は製鉄所の北側に接続されており、出来上がった割鉄(完成品)は、鉄の道を逆に進んで港まで運ばれた[2]。 遺構現在、保存整備されている建物跡は幕末期(安政年間頃)のものである[4]。たたら製鉄所は「山内(さんない)」と呼ばれており、全体が柵で囲まれていたとされる。
所在地山口県萩市大字紫福(しぶき)
関連項目脚注外部リンク
座標: 北緯34度30分21.6秒 東経131度32分17.7秒 / 北緯34.506000度 東経131.538250度 |
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