大森ゆかり
大森 ゆかり[1](おおもり ゆかり[1]、芸名:大森友伽里[1]、1961年(昭和36年)[1]12月21日[1] - )は、日本の元プロレスラー、元タレント[1]。第74代WWWA世界タッグ王者[1]、第76代WWWA世界タッグ王者[1]、第33代WWWA世界シングル王者。ニックネームはナツコ、女力道山。北海道札幌市出身。 経歴1961年(昭和36年)[1]12月21日[1]、北海道札幌市に生まれる。 格闘技好きの父の勧めで幼少期から柔道やわんぱく相撲に出場していたが、1980年(昭和55年)に[1]鏡山親方を後見人として、全日本女子プロレスへ入門。同期にはクレーン・ユウ、ダンプ松本、長与千種、ライオネス飛鳥らがおり、この年の入門者は後にトップ選手へ成長し、「昭和55年組」と呼ばれるようになった。ダンプ松本によると、長与と大森は正規のオーディションを受けていないコネ入団であったという[2]。 新人王決定トーナメントで準優勝。この頃、放送されていた資生堂のCM「ナツコの夏」に出演していた小野みゆきに似ていたので、ジャガー横田が“ナツコ” と呼んだことを機にこのニックネームで呼ばれるようになる[3]。後輩のブル中野は「ずば抜けて顔めちゃくちゃ綺麗だった」と証言している[3]。 1981年(昭和56年)[1]、ライオネス飛鳥とタッグを組む予定で写真撮影まで済ませ、メキシコ遠征の話もあったが、先輩のミミ萩原の相方に抜擢され[1]、第74代WWWA世界タッグ王者となる[3][1]。 1983年(昭和58年)、ミミ萩原が引退したので、ジャンボ堀と“ダイナマイト・ギャルズ”を結成し、第76代WWWA世界タッグ王者となる[3]。ほどなくして、相方の堀は引退し、シングルでやっていくこととなる[4]。膝を痛め低迷期に入るが、手術を経て完治後、「どうにかしなくては」とファイトスタイルとコスチュームを変更し、山崎照朝に手刀打ちを教わる[4]。体得後は必殺技“架裟斬りチョップ”は大森の代名詞となり、“女力道山”の異名で呼ばれた[4]。 1986年(昭和61年)、デビル雅美を破り、第33代WWWA世界シングル王者となる。同年、「タッグリーグ・ザ・ベスト」準優勝。パートナーは宇野久子。宇野はかつて大森の付き人をしていた。 1988年(昭和63年)[1]2月28日、ライオネス飛鳥を相手にしたエキシビションマッチを最後に現役引退[1]。引退後、ジャパン女子プロレスのコーチやテレビ中継の解説と並行し、タレントとして芸能活動を行う[1]。また、同期の中でも互いに連絡を取り合い今でも交流がある親友のダンプ松本と「桃色豚隊(ピンクトントン)」[1]というユニットを組み、松本とのデュエットシングル「赤いウィンナー逃げた」をリリースした。 1998年8月14日、川崎市体育館で行われたOGマッチ「メモリアル・オールスター戦〜あの時、君は強かった!!」にダンプ松本・ジャンボ堀と共に発起人として参加。 2005年8月26日、後楽園ホールで行われたLLPWの「立野記代25周年記念バトルロイヤル」にOGとして参加し、ジャンボ堀と合体攻撃空手チョップを見せた。 2008年8月16日、ダンプ松本自主興行「極悪血祭り」にて一夜限りの現役復帰。「ダイナマイト・ギャルズ」も復活し、同じく限定復活していたJBエンジェルスと対戦した。 後に結婚し、夫の故郷である静岡県三島市へ転居した。以後は市内の精米工場にパートで勤めながら子育てをしていると、2014年7月4日放送のTBS『爆報! THE フライデー』で紹介された[5]。 2024年12月の報道によると、函南町のプロレスとは無縁の食品加工工場でフルタイム勤務して家計を支えているという[6]。 得意技
タイトル歴書籍出演テレビ
映画
参考資料
脚注
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