大森民間機空中衝突墜落事故
大森民間機空中衝突墜落事故(おおもり みんかんき くうちゅうしょうとつ ついらくじこ)とは、1938年(昭和13年)に日本で初めて発生した民間航空機同士による空中衝突による航空事故である。 市街地に墜落し航空機の乗員全員が即死したほか、機体の爆発に巻き込まれ多くの住民も犠牲になった。 事故の概要空中衝突1938年(昭和13年)8月24日に羽田飛行場(現:東京国際空港)から訓練飛行に向かうため日本飛行学校の教官[1]の藤田敏雄(23)と学生の伊藤文三(19)が搭乗したアンリオ HD.14 EP-2型・複葉機( Hanriot HD.14(英語版) )(三菱重工業によるライセンス生産、搭乗員2名、機体記号 J-BIDH )が午前8時50分ころに離陸、その後に続いて日本航空輸送の教官の田中 春男(29)、「恵通公司」より教育委託された航空学生の酒井正(21)、青木亮策(25) が搭乗したフォッカー スーパーユニバーサル旅客機(中島飛行機がライセンス生産、搭乗員3名、乗客なし、機体記号 J-BJDO )が離陸したが、訓練飛行中だった午前8時55分に東京市大森区森ケ崎町上空150mで、スーパーユニバーサル機の右側面に対して HD.14 EP-2型機が双方でほぼ直角になる角度で衝突した[2]。そのため双方とも主翼が外れるなど空中分解し墜落した。 アンリオ機は 東京市大森区森ケ崎町5782番地(現:大田区大森南五丁目、森ヶ崎水処理センター付近)にあった芸妓の置屋(「宮本ハツ」経営)「四曼」(しまん)の玄関と風呂場を破壊し空き地に墜落し、搭乗員2名は即死した。一方のスーパーユニバーサル機は同大森区大森9丁目4561番地(現:大田区大森南三丁目、第四小学校バス停付近)にあった、「山本人次郎」経営の「山本ラッシュ製作所」(ねじ工場)の庭先に墜落した。 類焼双方の機体は訓練ということで通常の測量観察などの雑務飛行、及び定期旅客輸送飛行に比べれば少ない燃料搭載量ではあったが、離陸後数分で衝突したため、航空ガソリンの量は決して僅少とはいえず、この事実がスーパーユニバーサル側の墜落場所での悲劇につながった。
最終的に1938年9月8日21時00分までの補償認定の締切期限日時までに82名(搭乗員5名を含む)が死亡した。最終的な死亡犠牲者は85名とされている。 合同葬1938年8月29日、多数の死者を弔うための合同葬が大森第四小学校(現:大田区立大森第四小学校)校庭で執り行われた。葬儀委員長は地元の大森区長が務めている。天皇・皇后より救恤金が出されたほか、陸軍大臣、海軍大臣、逓信大臣など関係者から贈られた花輪が三百以上集まった[4]。 事故の原因当時はフライトレコーダーやボイスレコーダーはもちろん、航空事故調査委員会も存在しない時代であり、また戦時体制下ということもあり、詳細な事故原因の究明、さらには巻き添えによる地上の死者や負傷者に対する十分な補償がなされたとは言い難いが、当時(戦前)の「航空朝日」などの航空雑誌には考察者の出典の記載が無いものの、以下のような事故原因の考察が掲載された。
備考脚注
参考資料
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