大槻武二
大槻 武二(おおつき たけじ、1906年6月26日 - 2004年9月10日)は、日本のキリスト教伝道者。福音主義信仰を基軸にし、聖イエス会を創立した。[1] 人物
1936年、日本ホーリネス教会 (きよめ教会) の伝道師であった大槻武二は奉天 (後の瀋陽市、当時関東軍の拠点の一つ) での開拓伝道の任命を受け、奉天聖潔教会に赴任。1938年1月9日、鮮明な聖霊のバプテスマを体験し、キリストの内住を確信するに至る。以降、大槻の祈りによって活発に聖書に書かれているような神癒 (病の癒し) が起こるようになった 。1942年日本に帰国し各地のキリスト教会から招聘を受け巡回伝道を続けたが、1946年聖霊の導きにより聖イエス会を創立。1947年には後進の育成に力を注ぐために神学校 (修道学院) を設立した。 イスラエルの救済こそキリストの再臨と全世界の平和の鍵であると説き続けた。 聖歌隊 (黎明合唱団) のイスラエルへの派遣、イスラエル人学生・研究者へのミズラ会奨学基金設立、ホロコースト記念館設立などを導いた。長年の大槻の活動と祈りに対して、ヘブライ大学が名誉校友の称号を大槻に贈ったのを初めとして、エルサレム市議会が満場一致で名誉市民称号<ネエマン・イェルシャライム>の授与を決定[注釈 1]、さらにバル・イラン大学が名誉博士号を授与するなど、イスラエルにおいても高く評価されている。 略年譜
教義
イスラエルの救済とキリストの再臨1933年、大槻が所属していた日本ホーリネス教会の監督であった中田重治は、それまでに重要視されていた新生、聖化、神癒、再臨の教義に、「キリストの再臨はイスラエルの回復を通してのみ実現する」という教義を追加しようとした。日本ホーリネス教会では、この中田の主張を否定する者が多く、これに端を発して分裂を余儀なくされた。大槻が、イスラエルの回復や再臨運動について、中田の神学の影響を受けたことは明らかであり[注釈 3]、1938年中国宣教時の聖霊のバプテスマの体験の後、より具体的な使命として、大槻は、次のようなビジョンが与えられた。 聖イエス会はユダヤ民族と異邦人が共に神の救済を経験し、両者によって構成される「聖なる神殿」(エフェソ2・21)の完成によって、メシアの再臨がもたらされると信じ、その実現を教団の使命としている。しかしながら、イスラエルの救済といっても、他のミッション教団が行っているような福音宣教活動を行ってはいない[注釈 4]。過去キリスト教徒がユダヤ人に対して行ってきた迫害による傷を癒しユダヤ人との和解と調和のために、大槻は多くの活動を主導した。以下はその例である。
参考文献
注注釈
出典
外部リンク
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