大正期新興美術運動
大正期新興美術運動(たいしょうきしんこうびじゅつうんどう)とは、海外の美術動向(特に未来派とダダ)の強い影響のもと、大正期(1910年代後半から1920年代前半。ただし、主として、1920年代前半)に興った前衛的な美術運動のこと。美術史家五十殿利治により提唱された用語。 概要1910年代までに洋画界の中心となったのはフランス印象派の影響を受けた東京美術学校の黒田清輝らアカデミー派であり、文部省美術展覧会(文展)がその舞台であった。これに対抗し、ヒュウザン会(1912年)、二科会(1914年)など在野の団体による活動が見られた。第一次世界大戦が終わると、ヨーロッパへ留学する美術家も多くなり、フォービズム、キュビスム、表現主義などヨーロッパにおける新たな潮流が、同時代的に日本にもたらされる状況となった。 1920年、未来派の影響を受けて「未来派美術協会」が結成された。さらにこうした動向に大きな刺激を与えたのは、ロシアの未来派や構成主義の作家の来日、及び村山知義のドイツからの帰国(1923年)である。 前者はロシア未来派の作家ブリュリュック(ブリュリューク、ブルリューク)とパリモフの来日(1920年)と、構成主義の作家ブブノワの来日(1922年)である。 当時の運動の担い手として、具体的には次のようなグループが挙げられる。
1924年10月、これらのグループは大同団結し、『三科造形美術協会』(三科)となる。しかし翌1925年には瓦解し、その後、1925年の『造形』(浅野、神原、岡本、矢部、吉田、吉邨、作野金之助、吉原義彦、斎藤敬治、飛鳥哲雄、牧島貞一ら)、1926年の『単位三科』(中原、大浦、仲田定之助、岡村蚊象(山口文象ら)などのグループが生れた。(「劇場の三科」は、『三科』によるもの(1925年)と、『単位三科』によるもの(1927年)とがある。) 大正期新興美術運動はMAVOから三科結成の時期をピークとして解体し、プロレタリア美術運動などに分裂した。
用語「大正期新興美術運動」という名称は、五十殿利治の大著『大正期新興美術運動の研究』(初版1995年)により、強く提唱された。従来から、日本においても「1920年代の美術」というとらえ方(1920年代の主として前衛的な美術動向をすべてまとめるとらえ方)が主張されているが、「大正期新興美術運動」というとらえ方は、この「1920年代の美術」に対する次の批判を内包している。
参考文献
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