大里町 (福岡県)
大里町(だいりまち)は、福岡県企救郡にかつて存在した町。町制施行以前は柳ヶ浦村(やなぎがうらむら)と称していた。現在の北九州市門司区の一部。 沿革→「門司の歴史」も参照
柳ヶ浦村の成立大里町の前身である柳ヶ浦村は、1887年(明治20年)、
合併当初は「柳浦村」という表記であったが、古史等に「柳ヶ浦」と表記されていたことから、「柳ヶ浦村」と改称したとされる[1]。 1889年(明治22年)、町村制が施行され、自治体としての企救郡柳ヶ浦村が発足した[1]。当時の戸数は477戸、人口は2696人とされている[5]。 1891年(明治24年)、九州鉄道の門司(現門司港)・高瀬(現玉名)間が開通し、柳ヶ浦村には柳ヶ浦駅(柳ヶ浦停車場)が開業した。これは、現在の門司駅に当たるが、現在の門司駅よりも400メートルほど北にあった。もっとも、1897年(明治30年)発行の陸地測量部地形図には、駅名が「大里」と表記されており、柳ヶ浦駅より大里駅の呼称の方が親しまれていたと見られる[6]。 日清戦争後、柳ヶ浦は、遠賀郡八幡村(現八幡東区)、広島県坂村とともに、国の製鉄事業の用地候補となり、誘致活動を行ったが、選ばれず、1897年(明治30年)、八幡に官営八幡製鉄所が開業するに至った[7]。 柳ヶ浦村の北隣では、門司町が、鉄道敷設や築港を機に内外中継貿易港として発展し、1899年(明治32年)に市制施行して門司市となった。一方、柳ヶ浦村では、1903年(明治36年)に鈴木商店の金子直吉が大里製糖所を開業し、1907年(明治40年)、これを大日本製糖に売却し、ようやく工場進出が始まろうとしていた[8]。 大里町の成立1908年(明治41年)、柳ヶ浦村に町制が施行され、大里町となった[9]。なお、同年、柳ヶ浦駅も正式に大里駅と改称された[6]。 当初、大里町長は無給の名誉職であったが、町政が乱れ、町制施行後10年間で町長が職務代理者を含めて6人も代わった[9]。 1909年(明治42年)頃、門司市との合併の声も上がったが、立ち消えとなった[9]。 1913年(大正2年)2月、初の有給の町長として柳原保太郎が就任し、町政は回復に向かった[9]。 ![]() 1910年(明治43年)には大里製粉所(後に日本製粉と合併)、1913年(大正2年)には帝国麦酒(後にサッポロビール九州工場)、1914年(大正3年)には大里酒精製造所(後に協和発酵門司工場)など、鈴木商店系の企業が次々設立された。国鉄線路の海側は、民家や寺社を除いてほとんどが鈴木商店の工場で占められ、大里は鈴木王国と言われた[10]。一方、国鉄線路の東側は、田畑ばかりで、住宅はまばらであった[6]。 門司市との合併大里町と門司市との経済的・人的交流が進むにつれ、合併の機運が高まり、1921年(大正10年)、門司市会から10名、大里町会からも町会議員10名が合併調査員として嘱託された。1922年(大正11年)3月、大里町は合併に当たっての条件を門司市に提出し、門司市は同年4月に回答案を示した。大里町は同年5月、改めて条件を提出し、門司市側の承認を得た。同年5月18日、門司市会と大里町会で、大里町の地域全部を門司市に編入する旨の議案を可決した。内務省の承認、知事の許可告示を経て、1923年(大正12年)2月1日、大里町の門司市編入が完了した[11]。 合併時の協定に基づき、旧大里町には門司市役所大里出張所が置かれた[12]。 脚注
参考文献
外部リンク
関連項目 |
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