大隈家
大隈家(おおくまけ)は、菅原氏の末裔と称する日本の武家、士族、華族だった家。江戸時代に佐賀藩士だった一族で、明治大正期に内閣総理大臣大隈重信を出し、重信の勲功により重信の家系は華族の伯爵家、後侯爵家に陞爵した[1]。 歴史『大隈侯八十五年史』によれば大隈家のルーツは豊前国にあるという[* 1]。同書によれば「どの家の系図も昔に溯ると、大抵正確にわからぬが、君(大隈)の家も亦その例に洩れず、明らかに家系の年代を知ることが出来ぬのである」としつつ「比較的信を置くべき説によると、君の先祖は、もと豊前に住んでいた。そして菅原家がいつ頃、筑後久留米領にある大隈村に移ったか、分明しないが、菅原家泰の時、その所領の地名を採って、はじめて大隈彦次郎と称したことだけは明白である。その人が大隈家の祖先である」という[* 1]。彦次郎以降の家系図によれば、彦次郎の孫の孝家の代に肥前国神崎郡中津江村に移住し、その子信吉の代に龍造寺隆信に仕えて佐賀に移り、以降龍造寺氏と鍋島氏に仕えて重信の代に及んだのだという[* 1]。 大隈重信は自身を菅原道真の末裔と信じており、別の書物によれば大隈が初めて廟堂に上がった際には「菅原朝臣重信」を称したという[* 1]。久留米市梅満町の大隈公園から少し離れた場所には「梅満大隈天満宮」がある。佐賀藩・大隈重信の祖先が大隈山に社殿を建立したものであるという。久留米市誌にも「大隈村は佐賀藩士大隈家祖先発祥の地」との記述がある[* 1]。 幕末から大正期の当主大隈重信は幕末に佐賀藩士として王事に奔走し、太政官政府で大蔵卿などを務めた後、明治14年の政変で一時下野するも、明治20年5月9日付けで維新の功により華族の伯爵位に叙せられた。第1次伊藤内閣や黒田内閣、第2次松方内閣で外務大臣などを務めた後、明治31年6月に内閣総理大臣に就任。ついで大正3年にも第二次内閣を組閣した。第二次内閣総辞職後の大正5年7月14日、総理在職中の即位大礼、日独戦争勝利、日露協商の勲功により侯爵に陞爵した[2]。 その養子で侯爵位を継承した大隈信常の代に大隈侯爵家の住居は東京市赤坂区青山南町にあった[1]。 系図
脚注出典サイト出典参考文献
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