天下茶屋
概要一般的には南海電鉄・大阪メトロ堺筋線天下茶屋駅周辺および西成区の中部~東部を包括的に示す汎称地名として使われる。 天下茶屋一丁目~三丁目、および天下茶屋東一丁目~二丁目が天下茶屋駅の東側~北東側にあり、また西成区の地域区分としての天下茶屋地区は大阪市立天下茶屋小学校の通学区域(天下茶屋東・聖天下と、天下茶屋二丁目・三丁目の東部)を指すが、これにとどまらず、天下茶屋駅西側・北西側から西天下茶屋駅周辺にかけての一帯(岸里・潮路・千本北・橘・松・花園南二丁目など)や、西成区東部・南東部の阿倍野区との境界付近(岸里東・聖天下・天神ノ森など)を広く指し、またまれに阿倍野区側(松虫通・橋本町・相生通・北畠などの西側)も含めることがある。一方で汎称地名の場合は、「天下茶屋北」は天下茶屋には含めない場合も多い(因みに「天下茶屋北」の最寄り駅は天下茶屋駅ではなく萩ノ茶屋駅もしくは動物園前駅である)。汎称地名として使用される場合の天下茶屋の地名の範囲については、はっきりした定義はない。天下茶屋駅の南側・南西側は岸里の地名で呼ばれることもある。広くとらえた場合は西成区の半分近くを占めるような、西成区の代表的な地名でもある。 なお、天下茶屋の地名の起こりとなった場所は、現在の「天下茶屋」ではなく岸里東二丁目となっている。 現在ではほぼ全域が住宅地となっており、大阪の典型的な下町の一つとみなされている。 歴史天下茶屋の地名は、かつてこの地にあった茶屋・天下茶屋の名に由来する。 この地には天神ノ森天満宮があったが、その境内は「天神の森」と呼ばれる鬱蒼とした森となっており鄙びた土地であった。そこに湧く水の良さに着目して茶室を建て、森を切り開いて道をつけたのが、千利休の師に当たる武野紹鷗だった。以来この地は「紹鷗の森」とも呼ばれるようになった。 天正年間 (1573年 - 1592年) には楠木正行の十世孫であるという初代芽木小兵衛光立がこの森の西側を開き、ここに茶屋を出した。そして三代目芽木小兵衛昌立のとき、住吉神社を参拝した関白・豊臣秀吉がこの地に立寄り、この芽木家の茶店から清泉を汲んでお伴の千利休に茶を点てさせたところ、味の良さに感激。そこでこの泉に「恵の水」の銘を、芽木家に玄米年三十俵の朱印を与えた。そこから関白殿下の「殿下茶屋」、天下人の「天下茶屋」などの名が知られるようになったという[6]。 慶長14年3月3日(1609年4月7日)には、父・林玄蕃を闇討ちにした当麻三郎右衛門を、玄蕃の遺児・重次郎と源三郎の兄弟が9年間におよぶ苦難の末に、この地で見事に討ち取っている。この「天下茶屋の仇討」は当時代表的な仇討ち事件として講談や歌舞伎などに取り上げられ、その結果「天下茶屋」の名が日本中に知れ渡ることになった。 もとは西成郡勝間村に含まれ、紀州街道に面した新家で「勝間新家」と呼ばれていたが、天明から寛政年間にかけて東成郡天王寺村に含まれるようになった。天下茶屋の集落は天王寺村の集落の一つとなったものの、天下茶屋の地名は現在の西成区岸里東二丁目付近を中心として、天王寺村・勝間村および西成郡今宮町の3村の境界付近を広く指す地名となっていた。 明治時代後期になり、地域の東部は郊外別荘地としての開発が進められた。また地域の西部でも、大阪市の発展に伴って住宅地へと変化していった。 日露戦争の際には、俘虜収容所や付属施設などが一時期設置されていた。俘虜収容所は天下茶屋駅の北西にあったと伝えられるが、存在したことは当時の新聞記事で確認できるものの、資料が乏しく正確な位置や規模は分かっていない。俘虜収容所閉鎖後に土地は地主らに返還されたものの、元の農地に復元するのは困難として、当時の今宮村が耕地整理組合を作り、住宅地としての開発を図って碁盤目状の路地へと区画整理した。南から柳通・桜通・橘通・松通などの東西の道路が作られた。 一帯は東成郡天王寺村および西成郡今宮村(後に今宮町)・西成郡勝間村(後に玉出町)となっていたが、1925年(大正14年)にいずれも大阪市に編入された。なお、大阪市編入直前の天王寺村は人口が5万人を超える日本一の大村となっていたが、人家が最も集中していたのが天下茶屋であった。 旧天王寺村の区域は住吉区となり、1929年(昭和4年)に天下茶屋や松田町・聖天下・天神ノ森の町名が設定された。当時の天下茶屋の町名の範囲は現在とは異なり、おおむね現在の天下茶屋二丁目および同三丁目のそれぞれ東半分と、岸里東の東半分に相当する。聖天下の町名は、「天下茶屋の聖天さん」こと正圓寺の坂下にあることに由来する。また天神ノ森の町名は、天神ノ森天満宮に由来する。 また旧今宮町および玉出町の区域は西成区となり、旧今宮町地域では編入と同時に旧字を引き継いだ町名が設定され、また旧玉出町では編入2年後の1927年(昭和2年)に町名が設定された。 1943年(昭和18年)に大阪市の行政区の境界変更が行われ、天下茶屋・松田町・聖天下・天神ノ森の各町が、住吉区から西成区に編入された。 1945年(昭和20年)には大阪大空襲で地域一帯が被災し、天下茶屋の地名の由来となった屋敷も焼失した。 1973年(昭和48年)11月には西成区全域で住居表示を実施し、現在の町名となった。天下茶屋の町名の範囲は全体としては北西に移動した形となり、天下茶屋駅東側、南海本線・松虫通・阪堺線・大阪市道津守阿倍野線に囲まれた地域に天下茶屋の町名が設定された。一方で従来天下茶屋の町名だった南側については、西側の町と統合される形で岸里東の町名が設定された。また松田町のほぼ全域に天下茶屋東の町名が設定された。 年表
世帯数と人口天下茶屋2019年(令和元年)9月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
国勢調査による人口の推移。
国勢調査による世帯数の推移。
天下茶屋東2019年(令和元年)9月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
国勢調査による人口の推移。
国勢調査による世帯数の推移。
経済産業
地主・家主天下茶屋の地主・家主は、かつて芽木小兵衛[12][13]、芽木眞次郎[12][14]などがいた。 事業所2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[15]。 天下茶屋
天下茶屋東
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[16]。なお、小学校・中学校入学時に学校選択制度を導入しており、通学区域以外に西成区にある以下の通学区域に隣接する校区にある小学校、西成区内にある中学校から選択することも可能[17]。
交通南海本線と阪堺電気軌道阪堺線が南北に走っている。また住所表示上の天下茶屋からはやや西に離れているが、広域地名で天下茶屋と呼ばれる場合もある地域を、国道26号とOsaka Metro四つ橋線が走る。 鉄道
道路出身・ゆかりのある人物
主要施設名所・公園学校
商業施設
その他日本郵便
補注
参考文献
関連項目 |
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