天山陵天山陵(てんざんりょう[1]、方言名:ティンサンリョウ[2])は、沖縄県那覇市首里池端町に所在する、第一尚氏王統・尚巴志の陵墓跡である[3]。天山御墓(ティンサンウハカ)[4]、天山ようどれ[4]、または単に天山(てんさん)[5]ともいわれ、第一尚氏の歴代の王も葬られたとされる[1]。 立地那覇市の首里池端町と首里大中町、首里山川町の3町域にまたがる丘(天山、天山森とも[6])の南崖にあり、首里城の北西に位置し[5]、第二尚氏の陵墓「玉陵」とは約500メートル離れている[6]。天山陵への参詣路にちなんで名付けられた「天山坂(ティンサンビラ)」を下ると、「天山凝り(ティンサンゴーリ)」と呼ばれる窪地一帯が現れる[7]。「凝り(ゴーリ)」とは、「(水が)一か所に集まる」という意味の「凝ほり」を原義とし、地形を表す言葉へと変化したと思われる[8]。 構造天山陵は、15世紀前半に南向きの崖面に造営された掘り込み墓で、東室・中室・西室の3室が存在していたとされる[4]。戦前までは、半洞穴の内部を切石積みで整い、中央に観音扉が設けられていた[6]。また、西室は前室と奥室があり、この2室を繋ぐアーチ状の石積み羨道があったという[6]。東恩納寛惇の『南島風土記』(1950年刊行[9])によれば、「丘陵の中腹に2、3の古墳があり、遺骨は無く壙穴を残すのみである。」と記されている[10]。1983年(昭和58年)の沖縄県教育委員会による調査で、残存していた東室の遺構は、東側と南側の石積み、入り口の階段、そして蹴放し石と唐居敷、扉止め、羨道の一部などであった[11]。奥室入り口は、観音開きの石製扉があったと思われる[4]。発掘調査以前、天山陵付近で、溝の踏み板として用いられていた閃緑岩製の扉が発見され、それは沖縄県立博物館に保管されているが、このことから、天山陵に石製の扉が設置していたと考えられる[11]。後の第二尚氏初代の王となる尚円王の反乱により、天山陵は焼き討ちに遭ったと伝えられているが、1983年(昭和58年)の沖縄県教育庁文化課による発掘調査により、東室内部に焼け石や灰の堆積が確認され、この伝承を裏付ける証拠となった[5]。 歴史「天山(沖縄方言でティンサン)」とは、「天斉山(てんせいざん[12])」の略称で、第一尚氏の国相[注 1]を務めた懐機によって名付けられたとされる[3]。伊波普猷は天山陵を「天山のようどれ」と呼び、また、安里進は伊波がいうように「浦添ようどれ」や「佐敷ようどれ」と同様に「天山ようどれ」と呼称するのが妥当であると述べている[4]。第一尚氏が滅亡した後、第二尚氏の尚清王の五男である北谷(ちゃたん)王子[15]に下賜され、「天山御墓」と呼ばれ、その後も北谷家の墓として使用された[4]。 1439年(正統4年)、懐機が中国・江西省の竜虎山張天師[注 2]に宛てた書簡(『歴代宝案』所収)には、尚巴志王の死去と、彼を天斉山に葬ったと伝えている[17]ことから、1439年にはすでに天山陵は造営されていたと思われる[4]。『南島風土記』によれば、「天山は泰山神、即ち東嶽帝の別名」とある[3]。ここで、「東嶽」とは中国五岳の一つで[3]、尚巴志王の死去の際、懐機は国都城外に葬って、「東嶽」に倣い「天斉山」と命名したとされる[16]。また、張天師に宛てた書簡にある「天齎」は、「天斉」の誤写ではないかとしている[18][19]。長虹堤の完成後、懐機は天山陵の近くに居住し、死後は天山陵の脇に彼の墓が造られ、「坊主の墓(ボージヌハカ)」ともいわれた[3]。1456年(景泰7年)に琉球に漂着した朝鮮人2人は、1460年(天順4年)に死去した尚泰久王の葬儀を実際に目撃したと思われ、『朝鮮王朝実録』に記された彼らの話から、尚泰久王は天山陵へ葬られたと考えられる[4]。 天山陵が第二尚氏の尚円王による焼き討ちに遭う前に、尚徳王の近親者らは、王たちの遺骨を運びだしたとされる[1]。『中山世譜』によれば、天山陵が焼失した後、第二尚氏の一次的な陵墓として使用され、1637年(崇禎10年)に尚永王の妃が、1663年(康熙2年)に尚寧王の妃が葬られていた[20]。18世紀初期の『首里古地図』[4]には、「墓」という文字が記され、門が設置された石垣が見受けられ[2]、墓庭を石牆で囲っている[4]。また、1924年(大正13年)に「墓 尚巴志王陵?(首里)」と題した伊東忠太のスケッチは、天山陵の東室を描いたものと思われる[21]。『首里古地図』に描かれた天山陵は、戦前まで姿を保ち、墓庭は空き地のまま放置されていたが、沖縄戦で破壊された[5]。 1983年(昭和58年)11月上旬、天山陵のある土地で家屋の建設計画があることが判明し、沖縄県教育委員会により、同月中旬から工事予定地の東室において急遽発掘調査を行った[6]。戦後、天山陵の土地所有者によれば、採石業者はダイナマイトを用いて、天山陵一帯の岩盤を破壊したという[22]。また、1984年(昭和59年)1月7日の沖縄県教育庁による調査で、宅地造成で破壊された天山陵の東室と中室があった場所は、戦後投棄された空き瓶や空き缶で埋もれており、天山陵の遺物は一切発見されなかった[22]。このことから、天山陵は戦後早期に破壊されたと思われる[22]。1983年(昭和58年)に天山陵の保護を要請したが[5]、東室は消滅し住宅地へと整備された[15]。同年に地主自身が西室近くで発見した、尚巴志の石棺台座が残存している[2][23]。 第一尚氏の関係者と文化保護団体らは、再三にわたる要請を行ったが、文化財に指定されることはなく、天山陵は私有地となっている[1]。2016年(平成28年)現在、天山陵は一般に公開されていない[24]。 脚注注釈出典
参考文献
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