安中宿![]() 安中宿(あんなかしゅく)は、中山道六十九次の江戸(日本橋)から15番目の宿場町である。現在の群馬県安中市安中に位置し、安中藩・安中城の城下町でもあった。 概要![]() 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。 安中宿は、上野国碓氷郡安中の碓氷川と九十九川に挟まれた海抜180mの河岸段丘上にあり、中山道で日本橋から15番目の宿場町であった。現在の群馬県安中市安中に位置した。なお安中宿より東、JR東日本安中駅北東側の碓氷川南岸・安中市中宿にも中宿という宿場が存在した(中山道の公式な宿場ではない)。 安中は戦国時代までは野後(のじり)という地名で、古代東山道も通過しており『延喜式』には野後に駅が置かれたことが見える[1]。もっとも板倉勝明『安中志』には徳川家康の関東入国以前の中山道は北裏を通過しており、安中城も松井田城も北が大手だったと伝えられているとある[2]。天正10年(1582年)5月に滝川一益は「安中町」に自判がなければ伝馬を許さない旨の文書を発しているが安中宿という文言は見えない[3]。 「安中宿」の初見は慶長7年(1602年)6月2日付「定」で、宛名が「安中宿中」となっていて宿々の荷物付け送りについて定めており、この頃には宿場が形成されていたとみられる[3]。安永5年(1776年)、安政5年(1858年)、慶応3年(1867年)に宿場の大半が焼失する大火が発生している[4][5]。 安中宿の特徴として宿場が無高であることが挙げられる。なぜかと言うと安中宿は安中村という独立した村ではなく街道の北側は上野尻村、南側は下野尻村の土地に屋敷が建ち並んでいたためである[6]。 宿場の範囲は安中4丁目の信号を東端、地域福祉支援センター前を西端としてその間224間(約407メートル)であった[7]。天保15年(1844年)の『安中宿書上』によれば、安中宿の宿内家数は64軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠17軒で宿内人口は348人であった[8]。本陣須藤家は現在の安中郵便局の場所にあり、先祖は間仁田城主と伝わり、問屋を兼ねた。本陣の規模は間口14間半、奥行25間で建坪192坪だった[9]。脇本陣は上の脇本陣金井家が間口11間半、下の脇本陣須田家が間口8間だった[10][11]。 安中宿本陣古文書は安中市の重要文化財に指定されている[12]。 安中宿の助郷中山道の宿場では人馬継立のための御定人馬を50人50疋を通常備えることとされていたが、安中宿は小規模だったために25人25疋の「半減勤」で許されていた期間が非常に長い[8]。半減勤の適用がなかった期間は、文化8年(1811年)から文政5年(1822年)までと、弘化4年(1847年)から万延元年(1860年)までのわずか24年間で、残りのほとんどの期間で半減勤が認められていたことになる[13]。他方、宿場の人馬のみでは不足する場合には周辺の助郷の村々に負担させることとなるため、宿場と助郷の村とで半減勤の適用を巡って争いとなった[14]。安中宿の助郷の村は19ヶ村[15]で以下の通り。
(安中藩領以外の村には※を付した。) 文化8年(1811年)に半減勤が解除されたきっかけは、天明大噴火による被害を受けた中山道の宿場に対し1ヶ年50両の馬飼料代が江戸幕府から与えられたことにある。安中宿の助郷村が、安中宿も拝借金を受けるのであれば、半減勤を解くべきであるとして訴え出て、それが認められたのだった[16]。安中宿側は再度の半減勤認可を求めて道中奉行に訴え出て、安中藩主・板倉勝明もこれを後押しした一方、安中藩領以外の村の反対は根強かった。その際に作られたのが、勘定奉行兼道中奉行・石川忠房を生き神様として祀る生祠である。結果的に文政5年(1822年)12月1日から弘化4年(1847年)11月までの25年間、増助郷23か村が付けられることとなった。文政3年(1820年)に作られた生祠は行方不明となったが、昭和35年(1960年)に再建された祠と天保5年(1834年)建立の「石川館駅使生祠之碑」が安中市指定史跡となっている[16][12]。 最寄り駅史跡・みどころ
脚注
参考文献
関連文献
隣の宿 |
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