宝塚キネマ興行
寶塚キネマ興行株式會社(たからづかキネマこうぎょう)は、かつて京都に存在した映画会社である[1][2][3][4]。高村正次と南喜三郎が設立、正映マキノキネマの御室撮影所と、東亜キネマの配給興行網と、阪急電鉄の小林一三の資本を仰いで設立されたが、設立わずか半年で経営が崩壊、賃金未払いが起きる[1][2]。設立1年少々で解散した。通称宝塚キネマ(たからづかキネマ)[1]。 沿革データ概要![]() ![]() 御室撮影所を継承1932年(昭和7年)11月、高村正次が映画製作を断念した東亜キネマを買収、東活映画社の社長を辞任した南喜三郎とともに設立したのが、この「宝塚キネマ興行」である。「御室撮影所」を「宝塚キネマ撮影所」と改称して稼動させた。東亜キネマ、同社の製作を代行した東活映画社、そして正映マキノキネマの残党の受け皿となった[1]。設立第1作は東亜・東活系の堀江大生監督の『敵討愛慾行』で、同年12月15日に公開された。同年内に5本を公開した。 同社の撮影所は、1925年(大正14年)11月3日に開業した京都電燈(現在の京福電気鉄道北野線)の妙心寺駅の北側、大通り(現在の京都府道101号銀閣寺宇多野線)の北側に挟まれた一帯であった。 →「御室撮影所」を参照
1933年(昭和8年)7月、賃金未払いが起きて、経営者と従業員が対立する[1]。7月および8月の生産本数が如実に減り、映画館への作品の供給が滞る。1934年(昭和9年)1月14日、久保文憲 監督の『霧の地下道』を「大阪パークキネマ」で、後藤岱山監督の『大利根の朝霧』と、そしてついに監督となった高村の初監督作『片仮名仁義』の二本立てを「大阪敷島倶楽部」で公開したのが同社の最終作品となった。25万円(当時)の負債のため、同年1月21日をもって休業に入る[1]。 争議と解散所長の高村は新会社設立を発表するが、同年2月5日の時点で不成立であり、同月8日までに1,000円(当時)を調達するということであったが、150円しか調達できず、給料は支払われなかった[3]。同月10日、争議状態に突入、従業員側の代表に撮影技師の柾木四平[6]、現像部主任の木全俊策が選ばれた[3]。この時点で従業員256名(うち女性48名)、争議参加者は228名(うち女性41名)であった[2]。柾木・木全は名古屋の小林祐蔵(小林キネマ商会)等、外部の債権者等とも交渉を行った[3]。同月12日には、嵐寛寿郎プロダクションからエキストラの発注があり、俳優60名を日当1円50銭で雇い入れた。東京の岩岡商会(岩岡巽)が製作する『乃木将軍』へのスタッフ参加の要請があり、同月13日・14日の両日、60名が撮影に従事し、その受注金額から80銭が分配された[3]。 同年4月、従業員代表が俳優の豊島龍平[7]および片山伸二[8]、スタッフの饗庭寅蔵[9]の3人に代り、大阪の堀川興業を含めて交渉に入ったが、同月6日、新京阪電車四条大宮停留所(現在の阪急電鉄京都本線大宮駅)で高村所長の代理と称する正木長四郎と会見、解散手当金1,000円(当時)を調達したのでこれを支給したいとのことであったが、従業員側は所長と直接の交渉を主張、同月9日、京都駅前ステーションホテル(現在のステーションホテル京都)で所長と同様の趣旨の会見を行い、同日16時に全従業員が撮影所に召集され、約60人が集合、解散を言い渡された[4]。翌10日、従業員59名に対し、解散手当金として16円50銭(対象者43名)、7円(同9名)、4円(同7名)がそれぞれが支給され、同社は同日、正式に解散した[4]。 解散後同社が使用した「御室撮影所」は、同年9月から、田中伊助が設立したエトナ映画社が稼動、「エトナ映画京都撮影所」と改称した[1]。Google ストリートビューによれば、2009年(平成21年)11月時点での同社撮影所跡地は、分割されて住宅地になっている[1][5]。 従業員代表を務めた面々のうち、豊島龍平は松竹下加茂撮影所が製作し同年6月28日に公開した『月形半平太』(監督冬島泰三)に出演しており[7]、片山伸二は新興キネマが製作し同年10月15日に公開した『花婿突進』(監督久松静児)した記録が残っており[8]、柾木四平は翌1935年(昭和10年)11月にマキノ正博が設立したマキノトーキー製作所に入社している[6]。解散年まで在籍した監督である仁科熊彦と堀江大生は極東映画へ[10][11]、大江秀夫は大都映画へ[12]、久保文憲こと久保為義はマキノトーキー製作所へ[13]、後藤岱山は同地に残ってエトナ映画社へ[14]と散り散りに移籍して行った。 同社に資本参加した小林一三は、『映画事業経営の話』(1937年)に「撮影所経営はなぜ危険か」の章を設け、同社の失敗に触れている[15]。同社に参加しなかったものの高村を小林に紹介したマキノも戦後、設立当時のことを苦々しく回想している[16]。 同社が製作・配給した作品のオリジナルネガ、上映用プリントは現在、一部を除いてほとんど現存していない。東京国立近代美術館フィルムセンターは2014年(平成26年)現在、『孝子五郎正宗』(監督久保文憲、1933年)の33分尺プリント[17]、『韋駄天数右衛門』(監督後藤岱山、1933年)の78分尺プリント[18]、『護持院ヶ原の火華』(監督後藤岱山、1933年)の39分尺プリント[19]、『田宮坊太郎 春風礫の剣法』(監督堀江大生、1933年)の54分尺プリント[20]をそれぞれ所蔵している。マツダ映画社は、『韋駄天数右衛門』の52分尺プリント[21]、『艶姿影法師 前篇・陽炎篇 後篇・蒼弓篇』(監督仁科熊彦、1933年 - 1934年)の53分尺プリント[22][23]を所蔵している。 フィルモグラフィすべてサイレント映画である。 1932年
1933年
1934年
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク |
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