宮原町 (さいたま市)
宮原町(みやはらちょう)は、埼玉県さいたま市北区の町名。現行行政地名は宮原町一丁目から宮原町四丁目。住居表示未実施地区[4]。郵便番号は331-0812[2]。本項では、宮原町の前身で現在も残存する[5]大字加茂宮(かものみや[6])と、かつて存在した加茂宮村(かものみやむら)および鍛冶村(かじむら)についても述べる。 地理埼玉県さいたま市北区の大宮台地浦和大宮支台上に位置する。町域の西端を逆川が北方向に流れる。全域が市街化区域である[注釈 1]。北部は宮原駅を中心に区画整理された住宅地となっている。北部の高崎線周辺には生産緑地地区としての畑地が存在している。南部はプラザノースやステラタウンなどの施設が集中する。町名は旧村名から名前が採られた[6]。 隣接する町丁地価住宅地の地価は、2015年(平成27年)1月1日の公示地価によれば、宮原町四丁目16番2外の地点で190,000円/m2となっている[7]。 歴史もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡吉野領に属する加茂宮村、古くは1582年(天正10年)頃より見出せる加茂宮であった[6]。加茂宮は鴨宮とも称された。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では503石余(田183石余、畑302石余、山高17石余)、『元禄郷帳』では503石余、『天保郷帳』では523石余であった[6]。助郷は中山道上尾宿に出役していた。化政期の戸数は90軒で、村の規模は東西13町、南北1里であった[6]。地名は加茂神社(吉祥院持)が当地に建立されていたことにちなむ[8][6]。 →「上尾宿」も参照
加茂宮村に存在していた小字
鍛冶村鍛冶村は武蔵国足立郡大谷領に属していて、江戸期より存在していた[11]。現在の逆川の左岸沿いの緩傾斜地に位置していた。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では66石(田34石余、畑31石余)、『元禄郷帳』では45石余、『天保郷帳』では46石余であった[11]。助郷は中山道上尾宿に出役していた。化政期の戸数は14軒で、村の規模は東西1町、南北6里余であった[11]。はじめは幕府領だが、1625年(寛永2年)より旗本柴田氏の知行の時期を経て、1698年(元禄11年)より再び幕府領となる[11]。検地時期は不詳。宝暦年間に蜂ノ巣新田が開発されている。1828年(文政11年)より上尾宿寄場64か村組合に所属する[11]。小名には上ノ前・尾花島・下屋舗などがあった。 地名の由来は鍛冶がこの地に居住していたことにちなむ[11]。現在の宮原町四丁目の西側に相当し[11]、鍛冶公園にその名を残している。 世帯数と人口2017年(平成29年)9月1日時点の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[28]。
交通鉄道道路
宮原町出身の人物地域公園・緑地
寺社・史跡
教育かつては宮原町一丁目に埼玉県大宮高等職業訓練校も所在していた[21]。
施設宮原駅前や中山道沿線を中心に商業施設や民間施設が多数見られる。宮原町一丁目にはかつて富士重工業大宮製作所があった。なお、宮原コミュニティセンター内にあるさいたま市立宮原図書館は吉野町に所在する。
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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