密造酒![]() 密造酒(みつぞうしゅ)とは、酒造を管理する法令のある社会において、公権力による管理から外れて非合法に製造されたアルコール飲料の総称である。飲酒そのものを規制する法令をくぐって酒類を提供するためのものや、酒税を脱税するために製造されたものなどが相当する。酒税確保のための規制により非合法化された自家消費用の酒類のような、中間的な類型もある。 アメリカ合衆国ではen:Moonshine(アメリカ英語: ムーンシャイン)と呼ばれ、特にウィスキーの密造を指す場合が多い。日本では密造酒と言うと『どぶろく』を指す場合が多いなど、密造酒の品種は各国で特色がある。 概要近世から近代にかけての国家の成立において、租税は国家経済の基礎となるが、特に嗜好性の強い酒類は、多くの国家で課税対象にされ、酒類の製造販売に官による許認可が必要とされた。しかし税金逃れのため、一般の家庭や地方コミュニティー等で自家消費する酒類の製造を、無認可で行う事が横行した。 近世ヨーロッパの歴史において、酒造の歴史は往々にして密造酒の歴史と重なる事が多い。君主政治下においては王侯・貴族が政治を私物化することも時々あったが、この中では自身の奢侈のため、酒税を始めとする嗜好品には重税を科すことも行われた。また戦争という国家の威信をかけた事業には莫大な経費がかかったが、酒税は近世において大衆から資金を広く徴収するには「非常に便利の良い」口実ともなった。これらの事情により、特に酩酊しやすい蒸留酒ほど、より高額な税収が期待され、また高い酒税率が設定された。そのため、こういった課税を回避するために造られた密造酒の多くが蒸留酒である。 一方で酒類や食品などに係る規制は、国民の健康・衛生を守る大義の面もあり、その管理の枠組みから外れた存在である密造酒は、製造販売側の過失あるいは悪意により不衛生や飲用に適さない成分(代表的なものがメチルアルコール)混入による中毒事故が度々発生している[1][2]。2022年12月16日にはインドのビハール州で密造酒により37人が死亡した[3]。 密造酒そのものが犯罪行為である以上、他のより凶悪な犯罪との結託が容易に起こり、大規模に密造・密売される場合は、犯罪組織に地元の有力者、時に地元官憲さえもが賄賂で抱き込まれている場合もある。アルコール飲料の禁止や課税が行き過ぎると、アメリカ合衆国における禁酒法のように、密造酒が地下経済に取り込まれることでマフィアの巨大利権となり、深刻な社会不安を引き起こした歴史も存在する。酒造はもともと自家レベルから出発したものであり、多少の知識と簡単な道具で製造できる部分もあるため、現在でも自家製造と消費は絶えない。こうした極小規模に密造されるものは、容易に露見することもないため、一向に摘発が進まないのも、この問題に根強く絡む部分である。 日本における密造酒の歴史1875年(明治8年)、日本初の近代的な酒税法となる酒類税則の施行に伴い、日本において近代的な意味における「密造酒」と言う概念が誕生する。 第二次大戦前江戸時代までは自家用酒の製造は自由であったが、1875年(明治8年)に日本初の近代的な酒税法となる酒類税則が策定された後、酒税法の整備に伴って徐々に自家用酒に対する課税および制限が強化されるようになる。1899年の時点で日本の酒の製造量の1/4を占めたという自家用酒(濁酒)の製造を即座に禁止するのは現実的ではなく、しばらくは自家用酒の製造が容認されていたが、日清戦争(1894年-1895年)後の歳入不足を補うために行われた1899年(明治32年)の増税に伴い、ついに自家用酒の製造が全面禁止された。しかし、それまで自家用酒の製造を当然としていた農村地方においては、自家用酒の製造を即座にストップすることは無く、自家用酒は密造酒として造られ続けた。この密造行為または密造酒はしばしば濁密(=濁酒密造)と称された。 1899年当時における酒の密造は、東北、九州、山陰地方に特に多かった[4]。1890年代においては酒税収入が国税の30%~40%を占めるという状況下において、酒の密造に対しては税務署による厳しい取り締まりが行われたが、それに対する農民の抵抗は大きく、税務属の殉職・遭難などのトラブルが頻発した。例えば、1903年(明治36年)には千葉県銚子税務署員が殉職、1908年(明治41年)には沖永良部島にて鹿児島県大島税務署の職員が殉職するなどしている。 当時の酒税法においては、税収確保の観点から零細業者の増加を防止するため、年間50石以上の製造者のみが酒税免許を得ることが可能であったため、個人による自家用酒の製造は密造となる他は無かった。そのため、税務署の指導によって村落の共同出資によって会社を設立させ、「共同製造」と言う形にして、自家用酒に対して酒税免許を与えることで密造を撲滅するという方式がとられたが、会社から濁酒の分配を受けた構成員の中に、それを元として大量の濁密の製造を行う者が続出し、かえって密造酒を広める結果となった。 1916年(大正5年)には秋田県河辺郡船岡村船岡字猫ノ沢(現大仙市協和船岡沢内)で税務署員が襲撃されるという、猫ノ沢事件が発生する。東北の貧しい田舎や山陰の山奥の村では悲惨な事件が繰り返され、「濁密地獄」と称された[5]。 1923年(大正12年)には岩手県和賀郡湯田村(現・西和賀町湯田)にて濁密の取り締まりに当たっていた花巻税務署の税務属が住民に半殺しに遭う事件が起こっており、この事件をベースに宮沢賢治が『税務署長の冒険』(1923年)という小説を書いている。この宮沢賢治の小説を「荒唐無稽のフィクション」と考える賢治研究者もいたが、米地文夫らの研究により、この小説が実際に起こった事件をベースにしていること、当時の花巻税務署管内では村落ぐるみ・会社ぐるみで酒の密造を行っていたことや、濁酒ではなく清酒の密造が増えていたことなど、この小説が当時の花巻(作中では「ハーナムキヤ」と呼称)や湯口湯本(「ユグチュユモト」、旧:稗貫郡湯口村・湯本村、現:花巻市。実際の事件があったのは同じ岩手県の湯田村(村内には湯本という地名もある)であるが、それを花巻近郊に置き換えた)周辺の状況をかなり正確に反映していることが現在は明らかになっている[6](つまり、大正時代の東北地方の密造酒の実態を平成時代に宮沢賢治の研究者が明らかにした)。 当時の東北地方では「機を織ることと濁酒を造ることは娘の嫁入の資格」と唱えられており、密造酒で捕まっても恥や罪と思わず、税務署員・治安当局の人間のような風体や言動をしている人間が現れたらすぐに村中に通報する(そして袋叩きにして吊るし、燻(ゆぶし)をかける、つまり青杉葉を焚いて煙攻めにする)システムが村ぐるみで整えられていた。1921年(大正10年)における酒類等無免許製造者処分件数は3780件、このうち仙台国税局の管内における摘発が2687件[7]。この頃が戦前の摘発件数のピークであり、その後は密造酒の摘発よりも防止に重点が置かれるようになり、住民の生活水準の向上もあって、終戦にかけて酒の密造は減少していく。 第二次大戦後第二次世界大戦終戦直後の1945年(昭和20年)当年からメチルアルコールによる死亡者が続出した[8]。その後も急激なインフレによる酒類の価格高騰、および酒類の生産数量の低下に伴い、密造酒の製造が盛んとなった。1947年(昭和22年)の密造酒の推定生産数量五〇万二千キロリットルに対し、正規酒類の製造場移出数量は三四万三千キロリットルと、密造酒の推定生産数量が正規酒類を遥かに上回った[9]。社会的混乱により、闇市では密造した焼酎『カストリ酒』が公然と出回っていた。 農村部での密造に加えて、都市近郊に失職した朝鮮人を中心とする密造集団が構成された。これに対し、税務当局は全国の税務署員を動員して強力な取締体制を構築したため検挙件数は急増し、1947年(昭和22年)の検挙件数は16,968件に達した。密造集団の抵抗は大きく、1947年(昭和22年)には川崎市の密造集団の取り締まりに当たった神奈川税務署の署員が殉職する事件が起こっている(神奈川税務署員殉職事件)。密造集団の取り締まりに際しては警察や進駐軍MPの協力が得られることもあったが、税務署員が主体となることは変わらず、命を落とす者もあるなど危険であることから、1947年(昭和22年)に「財務局及び税務署に在勤する政府職員に対する税務特別手当の支給に関する法律」が施行され、取り締まりに当たる税務署員に特別手当が付くようになった。国会提出された法律案には特殊な第三国人等に対する検査調査が「政府職員が事務の執行にあたり生命又は身体に著しい危険を及ぼす恐れがある場合」にあたるとされている[10]。 密造酒の製造は1952年(昭和27年)から1953年(昭和28年)頃までが最盛期であったが、その後は戦争直後の混乱の収束による密造集団の自覚と、税務署の指導によって密造集団が合法会社に転換するなどしたため[11]、密造集団は昭和40年代までに消えていった。また、酒造会社の再開により合法で品質の安定した酒類が流通するようになると、粗悪なカストリ酒は消えていった。 現在
1953年(昭和28年)施行の酒税法により、日本において酒類製造免許がない状態でのアルコール分を1%以上含む酒類の製造は原則禁止されている。これに違反し、製造した者は酒税法第54条により10年以下の懲役又は100万円以下の罰金が科せられると同時に、製造された酒類、酒母、もろみ、原料、副産物、機械、器具又は容器を、所有者の如何に関わらず没収される。 製造免許を国税庁から交付される為には、酒類の一定量の製造が必要となる。具体的には、日本酒やビールの場合は60キロリットル以上、ウイスキーやワインの場合は6キロリットル以上であり、個人が自家消費用で製造することは不可能である。 これら規定の例外として、農学や醸造学などの研究における酒類製造は認められている。この場合、あくまで学問の自由の為に製造するものであり、「試験醸造のための製造免許」という扱いをされている。また、かつては伊豆諸島の青ヶ島(東京都青ヶ島村)において、交通の便が非常に悪い為、税務官吏が島を訪れることにより得られる酒税よりも、島を訪れることによってかかる費用の方が多かったことから野放しとされていた。これは法が想定している例外ではなく、また1984年の青ヶ島酒造合資会社設立により解消された。 酒類に水以外のものを混和する行為も酒類製造(混成酒類製造)とされるが、カクテルのように家庭や飲食店で消費直前に混ぜる場合は例外として認められている。この他に、自家消費用に、20度以上の蒸留酒に対して、酒や以下に挙げるものを混和せず、更に混和後アルコールが新たに1度以上発酵しない場合に認められている[12]。
自家製の梅酒が認められるのはこの例外による。なお2008年4月30日から、一定の要件の下に、免許がなくとも旅館や飲食店等も梅酒等が出せる特例措置が設けられた。適用を受けるためには税務署へ特例適用の申告を行う必要がある[13]。さらに上記のとおり、日本酒やワインは20度以上の蒸留酒ではないため、たとえばサングリアなども造ることができない。 日本国内においても「ビール醸造キット」やワイン酵母などアルコール醸造に転用可能な酵母、あるいは麹などは広く販売が見られる。しかしその場合においても無免許でアルコール度数1%を越えるものは違法となる[14]。 密造酒の例
密造風ウィスキーウィスキーの熟成は密造が関係しているため、「密造」に関係する語が銘柄の名前に付けられている例も散見される。 スコッチ・ウィスキーの「オールド・スマグラー(Old Smuggler)」のスマグラーは、通常、「密輸業者」や「密輸船」を意味する英語であるが、ここで言うスマグラーとは「酒の密造者」のことである[22]。同じくスコッチ・ウィスキーの「ポッチ・ゴー(Poit Dhubh)」とは、ゲール語で「黒いポット」を意味するが、これはウィスキーを密造していた頃に使用された、黒い蒸留器のことであり、この銘柄の瓶のラベルにはウィスキーの密造の様子が描かれている[23]。アメリカン・ウイスキーでは「Moon」や「shine」など禁酒法時代の密造酒を連想させるブランド名の製品も登場している[24]。 これらは当時のレシピを再現したり正式な瓶ではなくメイソンジャーに入れるなどしているが、酒造メーカーが蒸留した正規の製品である[25]。
脚注
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