富田林興正寺別院
富田林興正寺別院(とんだばやしこうしょうじべついん)は、大阪府富田林市富田林町にある真宗興正派の寺院。本山興正寺の別院。本尊は阿弥陀如来。富田林寺内町の中核となる寺院である。 歴史寺伝によると、そもそもは応永年間(1394年 - 1412年)に毛人谷村(えびたにむら)小字古御坊に建立された一向宗(浄土真宗本願寺派)の道場が当寺の前身であるという[1][2]。 永禄3年(1560年)[3]に興正寺第16世証秀[注 1][注 2][注 3]が石川の西側にある「富田の芝」と呼ばれた荒地を境内地として買いうけ、周辺4村の庄屋8人とともに富田林寺内町を開発し、永禄年間(1558年 - 1570年)に当寺を建立した[7]。 証秀の祖父である興正寺第14世蓮教はかつての法名を経豪といい、畿内を中心に多くの門徒を抱える佛光寺の住持であった[8]。文明13年(1481年)頃に本願寺へ帰参したが、多くの門徒・末寺を引き連れて佛光寺を去り、山科に興正寺を建立した。そして蓮教は本願寺第8世蓮如とともに河内地方の教化に努めた[9]。証秀の父である興正寺第15世蓮秀の時に山科本願寺の戦いによって山科の本願寺・興正寺がともに焼亡すると、興正寺は大坂にある大坂本願寺の近くの天満へ移った。蓮秀は細川晴元と本願寺の和解に奔走した功によって、本願寺の一家衆に加えられている[10]。証秀が34歳で病死した後、本願寺第11世顕如の次男で証秀の養子に入っていた顕尊が興正寺第17世となり、永禄12年(1570年)に正親町天皇より興正寺を脇門跡とする勅許を受けた[11]。 しかし、これだけ本願寺と深い係わり合いがあるにもかかわらず、本願寺と織田信長による戦い、石山合戦の際には当寺と富田林寺内町は本願寺側には付かず中立を守った。そのため、信長から焼き討ちにあうことはなく[3]、寺も町も守られた。 『郷土史の研究』によれば、当寺は初め「興正寺掛所」と称し、後に「興正寺門跡兼帯所」となり、本山興正寺の西本願寺からの独立に伴って1880年(明治13年)に「興正寺別院」に改称したとされる[12]。俗に、富田の御堂または御坊という[12]。『河内名所図会』には「興正寺の輪番所」とあり、本山興正寺門主が当寺の住職を兼任し、当寺には本山から派遣された留守居がおかれた[4]。現在は、本山興正寺住職の一族が当寺の住職を務めている。 太平洋戦争末期には大阪市平野国民学校からの学童集団疎開を受け入れている。 境内
文化財重要文化財以下の建造物が「富田林興正寺別院 6棟」として国の重要文化財に指定されている(2014年9月18日指定)[18]。
所在地
アクセス脚注注釈出典
参考文献
外部リンク |
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