寬仁親王妃信子
寬仁親王妃信子(ともひとしんのうひ のぶこ、1955年〈昭和30年〉4月9日 - )は、日本の皇族。身位は親王妃。敬称は殿下[1]。お印は花桃(はなもも)。勲等は勲一等宝冠章。旧名は麻生 信子(あそう のぶこ)。上皇(明仁)の従弟である寬仁親王の妃。 経歴生い立ち麻生セメント会長・麻生太賀吉の三女として東京都渋谷区松濤町(現・神山町)で出生。母は内閣総理大臣・吉田茂の三女・和子。 松濤幼稚園、聖心女子学院初等科、聖心女子学院中等科を経て、英国・ランカシャーのインデペンデント・スクール、ロスリンハウス・コレッジ(Roselyn House College)を卒業。卒業後は、彼女自身も通っていた松濤幼稚園に英語講師として勤務した。 親王妃として結婚1972年(昭和47年)2月、16歳の時に寬仁親王(当時26歳)から求婚されたが、当時はまだ高校生で若すぎるということもあり、8年後の1980年(昭和55年)4月18日の皇室会議を経て婚約。同年の11月7日に成婚した。同日付で勲一等宝冠章を受章した。この時から、東京都千代田区三番町の仮寓所に居住する。翌1981年(昭和56年)12月20日に長女彬子女王、1983年(昭和58年)10月25日に次女瑶子女王の女子2人を出産した。日本赤十字社名誉副総裁のほか、社団法人東京慈恵会総裁、一般社団法人日本童謡学会名誉総裁、財団法人日本ばら会名誉総裁などに就任している。料理を得意としており、料理に関する著作もある。特に次女・瑶子女王は「とても自慢」と記者会見で語ったほどである[2]。 静養2004年(平成16年)5月に一過性脳虚血の発作が起こり、7月より長野県軽井沢町の相馬家(元子爵・実姉の婚家)の別邸にて療養した。更年期障害も重なり静養を続けていたが[3]、2006年(平成18年)に新年の祝詞を述べるため一度帰京した。再び軽井沢にて療養に入るも症状が治まったため、5月帰京を予定していた。しかし寬仁親王の体調不良から延期され、同年8月に2年ぶりに宮邸に戻ったものの[4]、式典への欠席が続いていた。さらに2008年(平成20年)暮れになると気管支喘息を患い、入退院を繰り返していた。姉や兄たちの別邸に長期療養し、東京に戻っても宮邸には戻らず、宮内庁長官公邸(千代田区三番町)に住まうなどしていた。2009年(平成21年)10月、入院していた病院から、療養のため宮内庁分庁舎に移った[5][6]。2012年(平成24年)6月の夫・寬仁親王薨去に際しては、表に出ることはなく、喪主を第1王女の彬子女王が務めることになった[7]。また、信子妃も彬子女王も寬仁親王家の当主を継承することがないまま、寬仁親王家が三笠宮本家に合流することになった[8]。 寬仁親王薨去後2013年(平成25年)11月に、ようやく公務復帰を果たしたと報じられた[3][9]。さらに2014年(平成26年)には、義弟・桂宮宜仁親王の薨去に際し、同宮邸に弔問に訪れていたことも報じられた。同年10月12日には日本青年会議所第63回全国大会松山大会へ出席、10月29日のオランダ国王ウィレム=アレクサンダー・王妃マクシマ夫妻歓迎の宮中晩餐会へ11年ぶりに出席、11月6日の園遊会には2004年春以来10年半ぶりに出席、2015年(平成27年)1月2日の一般参賀には19年ぶりに出席した。2019年(令和元年)には、ライフワークとして寬仁親王とともに尽力してきた「童謡」の再興を掲げる日本童謡学会の名誉総裁に就任し、同団体を通じた被災地支援活動にも積極的に参画している。2022年(令和4年)11月15日の宮内庁の発表により、今月右胸にステージ1の乳がん(浸潤性乳がん)と診断されたことがわかった。同月16日に都内の病院へ入院、19日には手術を受けることとなった。宮内庁の令和5年度(2023年度)予算案に、寛仁親王妃信子の住居として使用されている宮内庁分庁舎(1998年竣工)を改修するための設計費5500万円が盛り込まれた。寛仁親王妃は改修工事に伴い、高輪皇族邸を仮住居とする方向で検討が進んでいる。宮内庁分庁舎は老朽化が進んだことから、令和6年度(2024年度)予算の概算要求に改修費を盛り込むことを検討している。高輪皇族邸は、2004年(平成16年)に宣仁親王妃喜久子が薨去するまで高松宮邸として使用されていたが、上皇明仁・上皇后美智子が現在の住居である仙洞御所に移転する2022年4月まで、約2年間居住していた[6]。2025年度から2カ年計画で、総額約13億円かけて現在の住居である宮内庁分庁舎のエレベーター設置を含めたバリアフリー化の改修工事を実施することとなった[10][11]。 2025年(令和7年)3月31日、仮住居である高輪皇族邸に愛犬と共に引っ越した[12]。 年譜
子女家系
栄典日本外国名誉役職
宮号の表記に関して1947年(昭和22年)10月14日に11宮家が離脱する前までは、宮家の数が多く、現在の悠仁親王のように「嗣子であるためあえて宮号を受けていない親王・王」を有する宮家が複数あったため、そのような「嗣子たる親王・王」のことを「○○若宮」(○○のわかみや)と呼ぶ慣習があったが、現憲法下では皇室制度に詳しい人々の間でもこの呼称はほとんど用いられない。慣習に従えば、寬仁親王は「三笠若宮」、同妃信子は「三笠若宮妃」となる。なお、政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は必ず「寬仁親王妃信子」とされ、「三笠宮」が冠されることはない。 著作
脚注
関連項目外部リンク |
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