小倉屋山本
株式会社小倉屋山本(おぐらや やまもと)は大阪府大阪市中央区に本社を置く昆布の加工・販売会社である。 創業は嘉永元年(1848年)[1]の老舗。「をぐら昆布」こと松原久七から暖簾分けを許された初代山本利助が「新町橋小倉屋」として独立。のち「小倉屋山本」と社名を変更し、現在に至っている。尚、現在使用されている店のマークは、本家の商標に小倉の象徴であるもみじをあしらった、暖簾分けの経緯を物語るものとなっている。 概略・特長歴史小倉屋山本の総本家である松原久七は天保時代に、びんづけ油商の奉公人として奉公していたが、主家が一子相伝であったため、近隣にある昆布問屋に目をつけ昆布商を創業する[3]。さらに暖簾分けを許された初代山本利助が嘉永元年(1848年)、大阪新町橋のたもとに「新町橋小倉屋」を立ち上げたのが始まりである[2]。 大正から昭和にかけて当時、登場したばかりの百貨店の食料品部とも取り引きを始める[2][1]。 大阪大空襲で全焼した店を復興するにあたり、屋号を「小倉屋山本」と改名する[2]。 昭和24年には小倉屋山本の看板となる塩吹き昆布「えびすめ」を発表[1][2]。 やがて山崎豊子の小説「暖簾」が映画化され、知名度が上がる[2]。 昆布へのこだわり昆布本来の旨み「昆布の真正」を届けるという理念のもと、小倉屋山本は昆布以外の海産物への展開をあえて行わず、昆布一筋の姿勢を貫いている。 北海道道南産の真昆布[4]の中でも白口浜天然真昆布、黒口浜天然真昆布の2種類を多用している。 昆布漁の最中には何度となく産地を訪れ、その年の出来を見極めながら、総生産の約40%を小倉屋山本一社で仕入れている。 しかしながら、天然ものの出来不出来は気候などに左右され、年ごとにばらつきが出る。これらを補うために、3代目山本利助が養殖事業を援助。その後、浜にて研究を重ね、安定供給が実現された。 その他関連3代目山本利助の実妹であり、幼い頃から船場で育った小説家山崎豊子。処女作「暖簾」は、生家の小倉屋山本がモデルとなった昆布屋を舞台としている[1]。明治の後半に淡路島から出てきた15歳の吾平が、大阪船場の昆布商「浪花屋」で無我夢中に働き、丁稚から手代、番頭へと昇格。やがて暖簾分けを許され、商人の命であり、心のよりどころでもあるのれんを守りながら、親子二代が商売にいそしむ様が生き生きとつづられている。森繁久弥主演の映画化の他、テレビや舞台にもなった[5]。 主な製品
沿革
脚注・出典外部リンク |
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