小林和作小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日[1] - 1974年11月4日[1])は、日本の洋画家。主に風景画を手がけた。 経歴1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる[1][2]。生まれつき、吃音があった[2]。1908年、京都市立美術工芸学校卒業[1]。日本画家の川北霞峰に師事し[1]、号を「霞村」とする[2]。1910年、京都市立絵画専門学校(現 京都市立芸術大学)に入学[1]。在学中、第4回文展に入選[1]。1913年、同校を卒業[1]。1918年頃、日本画から洋画に転向し[1]、鹿子木孟郎の画塾に通う[1]。1922年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける[1]。1925年、第3回春陽会で春陽会賞を受賞[1]。翌年も出品し、春陽会賞を受賞した[1]。1927年(昭和2年)、春陽会会員となる[1]。1928年1月から1929年4月まで渡欧[1]。1934年、春陽会を退会し、独立美術協会会員となる[1]。この頃、広島県尾道市に移り住む[1]。 1945年(昭和20年)8月6日、郷里の山口から午前4時の汽車で尾道に帰る予定だったが、急用ができたため午前8時に乗車し、被爆の難を逃れている[3]。尾道では、広島県美展の創設や広島県立美術館の設立に尽力するなど、広島県の美術界の発展や後進の育成に力を注いだ[1]。1951年、第2回山陽新聞社賞を受賞[4]。1953年、芸術選奨文部大臣賞を受賞[5]。1971年、勲三等旭日中綬章[6]。1974年、秋穂町名誉町民[7]。1978年、尾道市名誉市民[8]。 1974年11月3日、広島での写生旅行中に誤って転倒して頭を強打し、翌日に死去した[6]。享年86。命日の11月4日には、墓所と筆塚のある西國寺で和作忌が開かれている[6]。 出典
|
Portal di Ensiklopedia Dunia