小野田家住宅
小野田家住宅(おのだけじゅうたく)は、愛知県豊橋市高塚町字郷中65にある邸宅。主屋と長屋門が登録有形文化財。 歴史12代 小野田吉次郎江戸時代の小野田家は三河国渥美郡高塚村の[3]庄屋を務めていた[4]。 文政5年(1822年)に西七根村に生まれた高橋吉次郎(小野田吉次郎)は、小野田家の養子となって12代当主を襲名した。26歳の時に国学者の羽田野敬雄に師事すると、高塚村において殖産興業や自力更生を説いた[3]。平民ながら寺子屋を開くなどし、後に代議士となる高橋小十郎などが小野田吉次郎に学んだ[5][6]。 小野田吉次郎は酒造業や薬品販売なども営んでおり、仕事で江戸に向かうこともあった[4]。嘉永2年(1849年)には長屋門が建てられたが、江戸の武家屋敷の門構えを気に入ったためだとされる[4]。明治維新後の1876年(明治9年)には長屋門で郵便取扱所を始めた[4]。小野田吉次郎は1879年(明治12年)に死去した。 13代 小野田澄吉郎弘化2年(1845年)、小野田吉次郎は額田郡深溝村の岩瀬澄吉郎(小野田澄吉郎)を養子に迎えた[3]。1886年(明治19年)、13代当主の小野田澄吉郎によって小野田家の主屋が建てられた[1]。1892年(明治25年)、小野田澄吉郎は新たに設立された豊橋銀行の株主となり、1898年(明治31年)には新たに設立された三遠銀行(→尾三貯蓄銀行→尾三銀行)の株主となった[7]。1920年(大正9年)には主屋が増築された[1]。 近年の動向2013年(平成25年)6月21日、主屋と長屋門が登録有形文化財に登録された[1]。 建築渥美半島の付け根と言える豊橋市南部、遠州灘に面する段丘の上にある[4]。 主屋敷地中央には主屋が南面する[1]。主屋の主体部は2階建であり、西側に増築した座敷棟を接続する[2]。1階の東側は土間、西側は2列6室の居室であり、2階には納戸と中廊下型の4室がある[1]。木造2階建、瓦葺[1]。1886年(明治19年)竣工[1]。 長屋門主屋の南方には長屋門が南面する[2]。木造平屋建、瓦葺[2]。嘉永2年(1849年)竣工[4]。桁行17m、梁間4.6m[2]。 脚注参考文献
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