尾張横須賀まつり
尾張横須賀まつり(おわりよこすかまつり)は、愛知県東海市横須賀町に鎮座する愛宕神社[注釈 1]の例祭である[1]。 概要からくり人形を乗せた山車の巡行と、神社への献灯などが毎年9月の第4日曜日とその前日に行われる。 祭礼に関する行事は、9月初旬から9月第4日曜の翌日までの約1か月間(祭期間という。)にわたっており、このうち山車が巡行する9月第4日曜を「本楽(ほんがく)」、本楽の前日を「試楽(しんがく)」または「町内曳き」と称している。 試楽では、山車を保有する町内会(=組(後述))の地域内を主に巡行し、その年の町内会役員宅の門前にてからくり人形を操演する。また、年少者の「お囃子コンクール」が催される。なお、試楽では夜祭を行わない。 本楽では、早朝に山車が神社前に曳き揃えられる。神社における神事の後、曳き揃えられた山車は巡行に先立ち、神社にからくり人形の奉納操演を行う。すべての山車は、同じ経路を巡行し、最大の見どころである「大どんてん」を経て再び神社前に戻り、夜祭の準備に取り掛かる。 夜祭では神社と山車に飾り付けた提灯に火が点される(献灯)。その後、山車は、提灯を飾り付けたまま神社前から出発。夜祭の見どころである「宵どんてん」後、曳き別れとなりそれぞれの町内会地域へと帰っていく。 祭礼自体は少なくとも享保年間、山車の巡行は少なくとも寛政年間から続いており、200年以上の伝統となっている。 起源神社が勧請された時期は、天正から文禄ごろ[2]又は慶安[3]とされており、社殿の草創は元和7年と伝わっているが、祭礼の起源は定かではない。 祭礼の起源について、伝承では「横須賀御殿へ訪れた徳川光友公(尾張徳川家2代当主)の旅情を慰めるため」とされている[4]。しかし、寛文8年から元禄元年までの徳川光友公が横須賀御殿へ御成した期間に、当時の祭礼日(旧暦8月24日)がほぼ存在しない[注釈 2]ことから、誤った伝承と考えられる。 なお、横須賀御殿とは、当地に造立された尾張徳川家の別荘のことである。 江戸時代の記録によると、享保6年に祭礼並びに山車及びからくり人形が存在する記載[注釈 3]があるほか、宝暦5年には祭礼が存在する記載[注釈 4]、明和6年には祭礼にて「笠鉾」を奉納している記載[注釈 5]、安永8年には祭礼にて「神楽」や「輿」が巡行し[注釈 6]、安永年間には祭礼が存在する記載[注釈 7]、文政13年には祭礼がある記載[注釈 8]があるため、これらの時期に祭礼は成立し山車の巡行が行われていたと推測される。 町内会(氏子)など愛知県東海市横須賀町及び愛知県東海市元浜町が氏子地域であり、本町・北町・公通・大門・植松・愛知横須賀・大同元浜荘・愛知横須賀寮・白扇寮・大同元浜寮の町内会又は自治会[注釈 9]があり、それぞれ「組」と称している。 かつては八公・圓通・新町・丸太元浜の組が存在したが、八公・圓通は1891年(明治24年)に合併し公通になり、新町は1924年(大正13年)に北町に編入、丸太元浜は2003年(平成15年)に町内会が無くなったこと[注釈 10]により廃止されている。 なお、本町・北町・公通・大門が山車を保有し(便宜的に「車持町内」という。)祭礼にて山車の巡行を行っており、植松・愛知横須賀・大同元浜荘は祭礼にて車持町内とともに愛宕神社に献灯している(便宜的に「献灯町内」という。)。 車持町内を中心に「横須賀祭り保存会(以下「保存会」)」が組織されており、各種行政機関への届出や祭礼当日の交通整理の手配、広報等の活動を行なっている。 祭礼(本楽)日祭期間は、前述のとおり、9月初旬から9月第4日曜日の翌日までであるが、神社としての祭礼日は9月第4日曜日のみである。 古くは愛宕権現の縁日である旧暦8月24日であった。 その後、神仏分離及び明治の改暦により、京都愛宕神社の例祭日である新暦9月28日となり、昭和30年代頃から現在の9月第4日曜となっている。 日程祭期間の日程と祭行事の概要は次の通り。
また、祭り期間以外に次の日程がある。
このほか、祭行事以外に次の日程がある。
山車の形式等山車の形式は、当地区に江戸時代の寛文6年に尾張徳川家の横須賀御殿が造営されたこと、および天明3年にその横須賀御殿の跡地へ知多半島の西浦(西海岸)を管轄する横須賀代官所が設けられたこと、横須賀港の整備により廻船が寄港したことにより、名古屋の城下町(現在の名古屋市中区地域)の文化の接受が容易であったことから名古屋型となっている。ただし、典型的なそれではなく独自の特徴がある。 なお、山車は1965年(昭和44年)9月27日に東海市の有形民俗文化財に指定された。 本町
北町
公通(八公)
公通(圓通)
※ 公通として旧八公・旧圓通の山車を隔年で巡行するようになってから、修復又は新調するまで、上山・前棚の人形は、八公のものを使用していた。 大門
山車の巡行本町組・北町組・公通組・大門組からそれぞれ1輌ずつ、合計4輌[注釈 11]の山車が巡行する。 経路試楽(町内曳き)山車は、それぞれの車持町内の地域をくまなく曳かれるうえ、年によって変わる町内会長や行司宅等にて祝い込みを行うため、巡行経路が毎年異なる。 なお、すべての山車が元浜地区の献灯町内(愛知横須賀組、大同元浜荘組、丸屋玉の湯[注釈 12])へ祝い込むほか、お囃子コンクールが東海市立横須賀公民館にて行われるため、昼過ぎから午後4時頃までは市道元浜線を中心に山車は巡行する。 午後4時頃から午後5時頃迄にかけ、本楽の見どころのひとつである通称「どんてん場」又は「同盟」[注釈 13]と呼ばれる交差点にて、大門組、本町組、北町組、公通組の順に大どんてんの場慣らしを行う。 また、大門組が元宮まで巡行し、からくり人形を奉納する。 午後6時から7時頃、山車はそれぞれの蔵へ収納される。 試楽の夜は、山車の巡行はなく、それぞれの車持町内にて、前夜祭[注釈 14]を行う。 本楽(朝及び昼)各山車は、神社前に午前6時に到着できるよう、蔵を出発する。 なお、本町組は、蔵と若衆小屋が現在地へ移転するまで、一旦、午前4時頃に蔵から中町通を南下、若衆小屋まで山車を巡行した上で、再度神社前まで巡行していた[注釈 15]。 神社前に到着した山車は、神社に向け一列に籤で決められた順に据えられる。 神社における神事を終えた正午から、山車は30分間隔にて、籤で決められた順に出発する。 神社前では、いったん転回し、神社を背景にした記念写真を撮影後、また転回して、山車の正面を神社へ向けて、からくり人形の奉納操演を行う。 その後、東へ進み、本町通に出たところで北へ向きを変え、高横須賀町との町境(旧横須賀橋[注釈 16])まで向かう。 高横須賀町との町境にて転回し、本町通を南へ進む。 本町通の横須賀町交差点(旧札の辻)にて、東へ向きを変え、養父町及び高横須賀町との町境(旧横須賀交番前[注釈 17])へ進む。 養父、高横須賀町との町境にて転回し、横須賀町交差点まで西へ進む。 横須賀町交差点にて南へ向きを変え、本町通を養父町との町境(旧植松郵便局前)まで進む。 養父町との町境にて転回し、北へ進む。 旧愛知銀行東海支店があった交差点(通称「中銀(ちゅうぎん)[注釈 18]」)にて、西へ向きを変え、村中町通を進み、突き当たりの丁字路(通称「ミカド」[注釈 19])を左折、中町通を南へ進む。 突き当たりの丁字路(通称「玉林寺」[注釈 20])を右折し、寺西町通を 西へ大門組山車蔵前まで進む。 大門組山車蔵前にて、北へ向きを変え、西町通を進み、突き当たりの丁字路にて右折、濱名町通を東へ進む。 中町通との交差点(通称「どんてん場」又は「同盟」)にて、山車を北向き(神社方向)に向け、からくり人形を操演、大どんてんを行う。その後、神社前まで中町通を北へ進む。 神社前では、鳥居前の交差点を中心として、山車は西向き・東向きにそれぞれ1両、北向きに2両据えられる。 本楽(夜)午後8時から15分間隔で、神社前から東へ進み、本町通に出たところで南へ向かう。 通称「中銀」にて、宵どんてんを行った後、村中町通を西へ進む。突き当たりの丁字路(通称「ミカド」)からは、それぞれの蔵へ向かい、午後11時頃から午前0時頃、山車はそれぞれの蔵へ収納される。 曳行の特徴他の名古屋型の山車が巡行する祭礼の多くでは、10名から14名の楫取すべてが前楫を担当し、後輪を梃子棒で操作する「腰回り」と共に山車の方向調整を行っているが、当地区では、4名の楫取が前楫、4名の楫取が後楫を担当して山車の方向調整を行い、梃子棒を使用しない。 また、多くの祭礼で楫取は適宜交代が行われているが、当地区では8名の楫取のみで試楽・本楽の山車の巡行を担当する。 みどころ山車の交差点における方向転換(「どんてん」という。)で、前楫4名のみで山車の前方を担ぎ上げるところがみどころである。 なお、どんてんはお囃子に合わせて行われるため、「動」と「静」が感じられる。 また、巡行における微妙な方向調整はすべて後楫4名で行っており、統率のとれた楫さばきもみどころである。 特に本楽の山車の巡行の最後に行われる「大どんてん」[12]は、からくり人形・お囃子の奉納の後、狭い交差点で山車を2回転させるものであり、最大のみどころである。 このほか、夜祭における「車献灯」は闇に浮かぶ提灯が幻想的であり、夜祭の山車の巡行の終盤におこなれる「宵どんてん」は楫取を未経験の組員の「にわか楫取」や昔取った杵柄の古参の組員などがどんてんを行うため、どんてん技術の違いを見て取ることができることがみどころである。 参考文献
注釈
出典
関連項目外部リンク |
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