山中大火山中大火(やまなかたいか)は、1931年(昭和6年)5月7日に石川県江沼郡山中町(現・加賀市)で発生した大火。近代以降の山中町で最も大きな災害で、町の大半を焼失した。 経過![]() 1931年(昭和6年)5月7日午前2時20分に本町第9区(現在の加賀市山中温泉本町2丁目付近)より出火し、午前7時15分に鎮火。一夜のうちに町の3分2を消失する[1][2]。 原因火の不始末により出火[1]。被害拡大の主な原因は以下とされている。 被害被害の概要(焼失家屋数は文献により異なる) 主な消失建物は、温泉旅館、郵便局、警察補派出所、町役場、裁判所出張所、駅舎、白山神社、小学校、伝染病院、自転車製造会社、瓦期会社、銀行、運送会社など、町の主要施設も多く被害にあった。温泉旅館にいたっては、五名館、吉野家第二別館以外の温泉旅館が全焼。新設の共同浴場(総湯)も失った。山中漆器は全焼。商店は60軒の内53軒焼失[1][2]。また、焼失した建物の中には、建て替え直後の建物も多くあった。 災害時の人の動き出火直後に駆けつけた北陸本線大聖寺駅駅長によると、出火当時、温泉に入浴中の浴客は約400名いた。妊婦や足腰の悪い高齢者も多くおり、死傷者も出た。また、勢いよく燃え広がる炎を前に、多くの住民は家財道具を持ち出すことも出来ずに避難した。避難先は、物産館の階上、公会堂、昭和クラブ、恩栄寺、灯明寺、または焼け残った親類の家など様々だった[1]。 復興大火翌日の早朝から瓦礫の整理や簡易バラックの制作が始まった。温泉電車山中停留所の焼け残ったホームを利用し、山中駅を開設。消防隊や在廊軍人団、青年訓練所員など、およそ700人が集まり、トラック8台を用いて瓦礫の整理を進めた。一方で、バラックの増設、電話、電灯の電柱の建設も行われた。 好天に恵まれたこともあり、整理は順調に進んだ。江沼郡女子青年団による炊き出しも行われた[6]。 翌年の1932年(昭和7年)、昭和天皇・香淳皇后より、2000円の見舞金が送られる。6月29日には義援金1回分の1万5047円30銭が791世帯に3669人に分配された[7]。 当時日本は、世界恐慌の影響による昭和恐慌で不況のどん底であったため、物価が安かった(民家700円から1500円で二階建ての住宅や店舗を新設することができた。)[8]。 5年後の1936年(昭和11年)には、新築の家屋は628戸に上り、観光客も火災前に比べ3割増加した。ダンスホール、天楼閣など近代的な設備を取り入れ、次々と宿泊施設が再建された。街中には当時珍しいエレベーターを備えた旅館が2軒もあった。全国的にも大規模な観光温泉として復興した[9]。 脚注
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