山本弥太郎山本 弥太郎(やまもと やたろう)は釧路のアイヌ、釧路アイヌ第22代首長[1]。 来歴・人物第21代首長イゼンタウケ・エカシの三男[1](四男とも[2])として生まれる。父の後を継いで釧路アイヌの首長となる。1885年の釧路アイヌの春採、雪裡への強制移住の際には春採に移住し、ここで死去した。葬儀は古式に則って行われた。高徳を讃え、その墓標には国造りのカムイに対して捧げられるものと同じY字型のものが使われた[1]。1822年から1869年まで釧路場所の通辞、支配人であった豊島三右衛門は、弥太郎は明治初年頃の春採役土人として有力であったとしている[3]。松浦武四郎を始めとする同時代の資料では、ヤウテツカアイノはメンカクシ(フミウンカクシ、釧路アイヌの伝承では弥太郎の祖父にあたる)の子とされている[4]。 アイヌ名ヤイテツ・エカシ[1]、ヤウテツカアイノ[5]、ヤイデアイヌ[2]と呼ばれた。別名をサケオヤイカラ・エカシ「酒を好き嫌いする長老」といった。酒を好み、家宝の金銀財宝も売り払ってしまったという。また、モニエヤ・アシカイ・エカシ「仕事上手な方」との別名もあった。弥太郎は釧路アイヌ山本家の家祖である。明治維新後、和名を付けるにあたり、メナシ・クル(道東アイヌ)の呼称の一つである「チュプカ・アイヌ」を訳して「日の本」姓を付けようとしたものの許されず、山本姓が付けられた[1]。 生没年生年については、松浦武四郎が天保8年(1837年)と記録している[5]。没年については子の山本太吉によれば「八十まで生きた[2]」、孫の山本多助によれば「99歳の天寿をここで全うした[1]」など諸説ある。死去、葬儀の年は明治35年(1902年)[6]と記録するものもあるが、多助によれば祖父が死んだのは明治末期、多助が就学前の幼い時というので、1904年から1912年頃までに没したと考えられる。彼に従うと生年は1805年から1811年頃までということになる。豊島三右衛門によれば、弥太郎は太吉が67歳の年から25年前に90歳で死去したという[3]。これと太吉の生年(山本太吉を参照)に従うと没年は1910年頃、生年は1820年頃となる。 親族主な親族。釧路アイヌの伝承による[1]。
脚注 |
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