岩下吉久
岩下 吉久(いわした よしひさ、1949年6月13日 - )は静岡県出身のプロゴルファー。 来歴伊東商業高校卒業で[1]、同校の先輩には中村稔[2]・土山録志[3]、後輩には坂下定夫[4]がいる。 岩下は1970年にプロ入りし[1]、1975年のアジアサーキットではタイランドオープンで謝敏男( 1975年の日本プロでは前田新作・川上実と共に村上隆・山本善隆・安田春雄・尾崎将司・鷹巣南雄に次ぐと同時に吉川一雄・草壁政治・島田幸作・鈴木規夫を抑えての6位タイ[8]、1976年のダンロップトーナメントでは横島由一・青木功に次ぐ3位に入った。 1977年のアジアサーキット・香港オープンでは2日目に快調に飛ばして4アンダー66をコースレコードをマークし、杉原輝雄・謝敏&陳健振(中華民国)と共に通算140で首位タイに並んだ[9]。3日目には73を叩いて8位に後退し[10]、最終日には5位タイに終わった[11]。 1977年のサントリーオープンでは2日目に杉原・小林富士夫と共に首位の草壁から3打差の2位タイ[12]となり、最終的には3位[13]であった。 1979年のサントリーオープンは初日を草壁と共に首位と1打差の2位タイ[14]でスタートし、2日目には76を打って後退[14]するが、3日目には66のベストスコアをマークして草壁と並ぶ首位タイ[15]となり、最終日には呂良煥(中華民国)らと共に前半途中で首位を奪ったが[15]、草壁・呂に次ぐ3位タイ[16]に終わった。 1980年の三菱ギャラントーナメントではグラハム・マーシュ(オーストラリア)と並んで中嶋常幸の2位タイに入り、かながわオープンでは初日に田中文雄・矢部昭・泉川ピート・森憲二を抑えて首位に立ち[17]、最終日には7バーディ・2ボギーの67と国内最高スコアを記録し、前日20位から一気に4位に浮上した青木[18]を抑えて3位に入った[19]。 過去に2度も最終日に逆転負けの苦い経験を持っていたが、1984年の東海クラシックでは2日目にそれまでのコースレコード64を更新する9バーディ・ノーボギー63で首位に立ち、そのまま逃げ切ってプロ入り15年目で初のビッグタイトルを手にした[20]。同年のブリヂストンオープンでは倉本昌弘、陳志忠(中華民国)、サム・トーランス( 1985年は静岡オープンで湯原信光・泉川・新関善美・川上と並んでの7位タイ[25]、三菱ギャランではブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)、湯原・矢部・青木・倉本、デビッド・イシイ( 1986年は美津濃オープンで青木基正・山本洋一・石井裕士・イシイと並んでの8位タイ[31]、関東プロでは青木・尾崎健・須貝と並んでの8位タイ[32]、関東オープンでは河野和重と並んでの9位タイ[33]、全日空オープンでは倉本・青木・鈴木弘一・尾崎将に次ぐ5位[34]、東海クラシックでは青木・尾崎将に次ぐ6位タイ[35]、ブリヂストントーナメントでは湯原・藤木・高橋勝成・海老原清治、クラレンス・ローズ(アメリカ)と並んでの10位タイ[36]に入った。 カシオワールドオープンでは、まだ日本では馴染みのなかったメタルヘッドドライバーを手にしていたスコット・ホーク(アメリカ)が2位に6打差を付けての通算12アンダーでぶっちぎり優勝を飾ったが、岩下の通算3アンダー・4位タイがパーシモンヘッドを使う日本人選手としての最高順位となった[37]。 1988年はブリヂストン阿蘇オープンでイアン・ベーカーフィンチ(オーストラリア)、上野忠美、ロジャー・マッカイ(オーストラリア)、横島・尾崎将に次ぐ6位[38]、広島オープンでは矢部・横島・牧野裕・中嶋・甲斐俊光・入野・上野と並んでの6位タイ[39]に入る。 1990年にはアサヒビール巨泉ゴルフで初日を6アンダー66でリードし[40]、帰国後の水戸グリーンオープンでは栗原孝と共に時任宏治の2位タイ[41]、茨城オープンでは2日間69をマークして4位[42]に入った。 1992年の茨城オープンでも芹澤大介・森茂則・江本光・小泉清一・町野治・小溝高夫・渡辺由己を抑えて加藤仁の2位[41]に入るが、1994年のマルマンオープン[43]を最後にレギュラーツアーから引退。 藤沢ジャンボゴルフ[44]を経て、現在は横浜市保土ケ谷区の大型ゴルフ練習場「ハンズゴルフクラブ」でインストラクターを務めている[45]。 主な優勝
脚注
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