嵯峨健四郎
嵯峨 健四郎(さが けんしろう、1937年8月15日 - 2011年11月1日[2])は、秋田県秋田市上北手出身のプロ野球選手(投手)。 経歴秋田商業高では、エースとして1954年秋季東北大会準決勝に進むが、盛岡商業高に敗退。翌1955年も夏の甲子園県予選を勝ち抜き、奥羽大会に進むが1回戦で盛岡工業高に敗れる。なお、高校時代の1年後輩には、後に大毎オリオンズや阪急ブレーブスなどで活躍する三平晴樹がいた。三平も高校卒業後、嵯峨と同じルートでプロ入りしている(但し、プロでチームメイトになる事は無かった)。 高校卒業後は、社会人野球の日本鉱業日立に入団。1956年の都市対抗野球にエースとして出場、準々決勝に進むが大昭和製紙に敗れる[3]。1958年の都市対抗野球でも2回戦に進み、ニッポンビールの北川芳男と投げ合うが惜敗[3]。翌1959年の都市対抗野球では2回戦で富士製鐵釜石に敗退した[3]。 社会人屈指の好投手として注目され、1960年に東映フライヤーズへ入団。 1963年の7月から先発陣の一角として起用され、8月22日には阪急ブレーブスの足立光宏と投げ合い、初勝利を完封で飾った。1964年には21勝を挙げ、初めて規定投球回(リーグ8位、防御率2.68)にも達する。土橋正幸、尾崎行雄と並ぶフライヤーズの20勝投手として球界に知れ渡った。だが、この年は打席でヒットが打てず、4月以降77打席連続無安打に終わった。 翌1965年は胃腸障害で2勝しかできず、打撃も不振で、8月半ばまで13打席連続ノーヒット。前年から、トータル90打席連続無安打を記録した。これらは1シーズン、連続シーズンいずれも連続打席無安打の日本記録である[4]。 しかし、同年8月19日の本拠地・後楽園球場での阪急ブレーブスとの試合で、91打席ぶり(およそ1年5か月ぶり)の安打を記録。足立光宏から、二塁手の頭を越えるヒットを放ち、不名誉な記録を漸くストップさせた。1966年は投打両面で復調し、17勝、防御率2.32(リーグ6位)を記録する一方、10本の安打を打っている。 1968年には、松村正晴内野手との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍。シーズン序盤には1完封を含む2勝を挙げるが、6月以降は失速し不本意な成績に終わった。僅か1年でジャイアンツを戦力外となり、翌年フライヤーズに復帰したが、この年を最後に引退した。その後は都内で会社員となる。 武器はスライダー、カーブ、シュート。 2011年11月1日午前5時30分、肝細胞癌のため神奈川県鎌倉市内の病院で逝去した。74歳没。 詳細情報年度別投手成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia