川崎駅非番警察官強盗殺人事件
川崎駅非番警察官強盗殺人事件(かわさきえきひばんけいさつかんごうとうさつじんじけん)は、1948年(昭和23年)3月31日に神奈川県川崎市で起きた現職警察官による強盗殺人事件である。 事件のあらまし1948年3月31日、神奈川県省線川崎駅ホームにいた人物Kが制服制帽を着た巡査Jに呼び止められた[1]。 Jは、事件に関わることとしてKを同駅駅長室に連れていき、警察手帳を提示の上で所持品を出させて説明を求めた。金三百円入りの封筒が出てきたことを理由にスリの疑いがあるとして、Jは川崎市川崎警察署駅前巡査派出所にKを連行した。Jは交番に詰めていた警察官に「モサ(スリ)らしいからちょっと場所を拝借したい」と断って、交番の休憩室で所持品についてKを再び追及した[1]。 Jは、Kが所持していた現金9,900円のほか雑品数点を犯罪の証拠品として預ると言い、更に警察署に連行するとしてKを交番から連れ出した[1]。 一連の取り調べと連行に居合わせた駅の助役・駅員や交番詰の警察官はなんら疑いを持たなかったが、実はこのJは管轄外の大森警察署に勤務する警視庁巡査[注釈 1]であり、しかもその日の勤務は午前中に終わって非番の状態であった。病気の実母への仕送りや同僚の給料使い込みにより金銭を工面する必要に迫られていたJは、不審尋問を装って通行人から所持品を奪うことを企み、札束を出して買い物をしていたKを標的にして、予め自分で準備していた現金入り封筒を紛れ込ませてスリの容疑をでっち上げたのである[1][2]。 途中Kの用便のために公衆便所に立ち寄り、Jはその隙に預かった金品を持ち逃げしようとした。これに気づいたKが「どろぼう!」と大声で連呼したため、Jは予め同僚から盗んでいた拳銃を発砲してKを殺害した[1][2]。 裁判刑事訴訟Jによる本事件の動機は、母から医療費や生活費の送金を頼まれていたことと、同僚の代わりに受領していた給料を遣い込んでいたためであった[3]。Jは同年7月末ごろに大森警察署寮の食堂への忍び込み事件が発覚し、8月5日に警察官を免職となった[3]。同月26日に母のもとを訪れた際、警察官によって身辺を捜査されていることを告げられたため、自殺を考えるようになった[3]。 Jは自分の死後の家族の将来をはかなみ、一家心中を企て、8月29日に母・甥とともに大森海岸から貸しボートで漕ぎ出し、羽田沖で甥(10歳)を銃殺して死体を海に沈めた。さらに母(52歳)も本人の同意を得て銃殺した[3]。 Jはその後適当な死に場所を求めて知人方などを訪れていたが[3]、同月30日に検挙された[4]。 Jは同年9月10日に起訴、10月4日に追起訴を受け、Kへの強盗殺人・甥の殺人・母の承諾殺人・拳銃の窃盗・銃砲等所持禁止令違反により、1949年(昭和24年)2月12日に東京地方裁判所で死刑判決を受けた[4][3]。同年3月3日に控訴を取下げ判決確定[4][3]。 国賠訴訟東京都の自治体警察に所属していたJが制服警官の出で立ちで犯行に及んでいたことから、被害者遺族は前年に制定された国家賠償法第1条により東京都を相手取って賠償を求めたが、都はJが非番の時間中に管轄外の場所で本件行為をなしたものであるから賠償責任を負わないと主張し、最高裁判所まで争われた[1][2][5]。 1956年(昭和31年)11月30日、最高裁は被害者遺族の主張を認め、職務執行の外形をそなえる行為をして、これによって他人に損害を加えたと形式的に判断できる場合には、国又は公共団体による損害賠償の対象となりえることが判示された(外形説)[2][5]。
脚注注釈出典
外部リンク
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