巡回裁判所

巡回裁判所(じゅんかいさいばんしょ、: circuit court)とは、英米法またはコモン・ロー制度を採用するイングランドアイルランドアメリカ合衆国等に存在する裁判所の一種である。日本でも明治時代やアメリカ統治下の沖縄で設置されていた。

裁判所が未整備な時代に判事が各地を巡回Circuit)して法廷を開いたことから名づけられた。現在でも第二審ないしは日本の地方裁判所レベルの裁判所の名称として用いられることが多い。

アメリカ合衆国

アメリカでは連邦と州のそれぞれに「巡回」の名称を用いる裁判所があり、西部劇に登場する多くの法廷場面は、州司法権下で郡単位で開かれた巡回裁判のものである。州の住民に提供するサービスが司法や治安などに限られた時代、時には酒場等の場を借りて巡回裁判の法廷が開かれた町村は、その名を「郡名+Courthouse(裁判所の意)」とする例もあった。南北戦争戦場・史跡として名を残すアポマトックス・コートハウスバージニア州アポマトックス郡)はその一つであり、他にもSpotsylvania Courthouse(バージニア州スポットシルベニア郡)などの例がある。

かつての連邦の巡回裁判所は合衆国控訴裁判所(United States Court of Appeals)と名称が変更されたが、その管轄区域を指す語として「巡回区」(Circuit)の名が残っており、巡回裁判所(Circuit Court)の名で呼ばれることがある。

また、特許や関税などに関する控訴裁判所の一つとして連邦巡回区控訴裁判所(United States Court of Appeals for the Federal Circuit)がある。

アメリカ合衆国施政権下の沖縄

中国

中華人民共和国では辺境を巡回する裁判官が存在する。地域によっては車両が通行できずに道具を乗せて移動するため「馬上法廷」とも呼ばれている[1]

日本

日本では大審院を設置した当初の、1875年(明治8年)5月19日から1877年(明治10年)2月29日まで巡廻裁判所を設けていた[2][3][4]

巡廻裁判は各上等裁判所(控訴院の前身)より管下府県へ派出し、府県裁判所(地方裁判所の前身)の権限の外の死罪の事件を判断した[5]小早川欣吾はこの上等裁判所が巡回裁判を行う制について英国の巡回裁判所 (A Court of assize) の制を模倣したものではないかと推測している[4]

各巡廻裁判の各地方に至るのは1年に2次を定則とした。ただし非常の事件は例外とした[5]。 上等裁判所長は巡廻の緩急を詳にし或いは交代の規則を定め、司法卿に稟請してこれを派遣する[5]。 重罪事件の多い地方では3次、4次の巡廻も司法省の判断に任され適宜処分することができた。ただし東京大阪等の格段劇繁の地はなお例外処分の見込みを立てて伺うべきこととされた[6][7]。 府県裁判所に於いて犯罪を下調べしてその証拠を得、その死罪の可能性があるものは案を具えて巡廻に至るのを待つ[5]。 各上等裁判所管下の広狭に因て、2若しくは3道に分かち、各道に裁判官2員(判事1員、判事補1員)を派す[5]。 各府県の判事は巡廻裁判の法廷に列席して巡廻裁判官とともに3員の定数に充てることができる[5]。巡廻判事は訴訟上は官等に拘らず府県判事の上席とした[8][9]。 結審したら巡廻判事より審案を大審院に送呈し、大審院が批可して、府県裁判所に下し決行させた[5]。大審院の批可を乞う文書にはその裁判に列する地方塡補の判事と連署させた[10]。また、このときその審案を一応できるだけ派出検事へ照会させた[11]。 巡廻裁判官が各府県に滞留するのに予め日数を限らず、当該府県の重罪の多少に従う[5]

1875年(明治8年)9月25日には巡廻裁判について、当分の内は府県裁判所で罪案・証拠・擬律案を具し上等裁判所へ差し出し、上等裁判所に於いて審案検査し、罪跡明白であって巡廻再審が必要ないものは直ちに大審院の批可を請い、原府県裁判所へ還付し決行させることになった[12][13]

1875年(明治8年)10月25日に地方兼任判事に事故があり巡廻裁判への列席が難しく成ったときはやむを得ず、判事補または代理官を以て定員に充てることとした[14]

上級裁判所との関係

死罪の事件の裁判は上等裁判所の権任とし、各上等裁判所の判事及び判事補を合わせて2人を派出し管内を巡廻して裁判した[15]

  • 上級裁判所の長は管内巡廻裁判所の便宜を料理することを掌る[16]
  • 上級裁判所の判事は管内府県を巡廻して各所で死罪の事件を裁判することを掌る[17]
  • 上級裁判所の判事補は判事に従い巡廻裁判の列に充てる[17]

府県裁判所との関係

府県裁判所は、死罪は文案・証拠を具え被告人拘置して巡廻裁判を待つ[18]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 馬上法廷がゆく ~中国雲南省~ - NHK
  2. ^ JACAR:A24010458800(第1画像目、第3画像目から第6画像目まで)
  3. ^ 内閣官報局「大審院諸裁判所職制章程及控訴上告手続改正巡迴裁判規則判事職制通則刪除 明治10年2月19日 太政官第19号布告 (輪廓附)」『法令全書』 明治10年、内閣官報局、東京、1890年8月25日、15-24頁。doi:10.11501/787957NDLJP:787957/48 
  4. ^ a b 小早川 1944, p. 1116.
  5. ^ a b c d e f g h JACAR:A24010458800(第4画像目から第5画像目まで)
  6. ^ 「巡回裁判ノ各地方ニ至ル度数」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A24011868100、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第三百四十七巻・治罪一・刑事裁判所一(国立公文書館)
  7. ^ 内閣官報局「巡廻裁判度数増加ハ司法省適宜ノ処分ニ任ス 明治8年7月17日 司法省達第18号達 (輪廓附)」『法令全書』 明治8年、内閣官報局、東京、1889年12月26日、1756頁。doi:10.11501/787955NDLJP:787955/951 
  8. ^ 「巡回判事訟廷上官等ニ拘ラス府県判事ノ上席・判事検事席順ノ事職制ノ司法文書ノ宣旨ノ部類ヲ参見スヘシ」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A24010509200、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二十七巻・官規一・任免一(国立公文書館)
  9. ^ 内閣官報局「巡廻判事ハ官等ニ不拘府県判事ノ上席トス 明治8年8月23日 司法省達第21号達」『法令全書』 明治8年、内閣官報局、東京、1889年12月26日、1757頁。doi:10.11501/787955NDLJP:787955/951 
  10. ^ 内閣官報局「巡廻判事調査ノ上大審院ノ批可ヲ乞フ死罪ハ其糾問ニ列スル地方填補ノ判事ト連署セシム 明治8年9月12日 司法省番外達」『法令全書』 明治8年、内閣官報局、東京、1889年12月26日、1790頁。doi:10.11501/787955NDLJP:787955/958 
  11. ^ 内閣官報局「巡廻判事死罪批可ヲ乞フノ節其審案ヲ派出検事ヘ照会セシム 明治8年9月25日 司法省番外達」『法令全書』 明治8年、内閣官報局、東京、1889年12月26日、1793頁。doi:10.11501/787955NDLJP:787955/969 
  12. ^ 内閣官報局「巡回裁判規則ノ内罪跡明白ニシテ再審ヲ要セサルモノ取扱手続 明治8年12月10日 太政官第190号布告 (輪廓附)」『法令全書』 明治8年、内閣官報局、東京、1889年12月26日、445頁。doi:10.11501/787955NDLJP:787955/284 
  13. ^ 内閣官報局「巡廻判事死刑見込届等ハ第百九十号布告ニ照依取扱ハシム 明治8年12月17日 司法省第13号達」『法令全書』 明治8年、内閣官報局、東京、1889年12月26日、1770-1771頁。doi:10.11501/787955NDLJP:787955/958 
  14. ^ JACAR:A24010458800(第20画像目から第21画像目まで)
  15. ^ JACAR:A24010458800(第4画像目)
  16. ^ JACAR:A24010458800(第3画像目から第4画像目まで)
  17. ^ a b JACAR:A24010458800(第3画像目から第4画像目まで)
  18. ^ JACAR:A24010458800(第6画像目から第7画像目まで)

参考文献

  • 「大審院諸裁判所及司法省検事職制章程附巡回裁判所規則判事職制通則」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A24010458800、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第十七巻・官制四・文官職制四(国立公文書館)
  • 小早川欣吾『明治法制史論』《公法之部 下巻》(改訂版)巌松堂書店、1944年。NDLJP:1281252 

関連項目

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