左川ちか![]() 左川 ちか(さがわ ちか、1911年〈明治44年〉2月14日 - 1936年〈昭和11年〉1月7日)は、昭和時代初期の日本の詩人。本名は川崎 愛[1]。名の「愛」は「ちか」と読むが、「あい」とも呼ばれていた。「現代詩の起点となる詩人」とも賞される[1]。 生涯北海道余市郡余市町大字黒川村に生まれる[1]。4歳までは歩行も困難なほど虚弱であった。父親はいなかったが、異父兄の昇が終生の支えとなる。1923年3月に余市町立大川尋常小学校を卒業[1]。親族の反対を押し切るかたちで庁立小樽高等女学校(現・小樽桜陽高校)に入学し[1]、1928年同校補習科師範部を卒業[1]、小学校の教員免許を取得する。1928年8月から、先に上京していた兄・昇の自宅に同居を始め、兄の友人として小樽時代から知っていた伊藤整や百田宗治などの作家・詩人たちとの交流が広がる[1]。1931年から雑誌に発表される詩や訳詩が注目を集め、新進気鋭の詩人として期待されるが、1935年4月から腹痛を訴えるようになり、10月に入院し胃ガンの末期症状と診断される。12月に自ら希望して退院し、翌年に世田谷の自宅で死去。享年24。 作品
左川ちかの詩人としての出発点は、東京で流行していた新しい詩の型を知ることから始まる。北園克衛・江間章子・春山行夫・阪本越郎などと同じ雑誌に投稿していたので、詩の叙情を否定するモダニズムの詩人と分類される。彼女の詩は最初から「女性」「生活」をうたうことを拒んでいる。しかしそれとは別に「死」「衰え」「病」を思わせるメタファーを用いるのが特徴である。 詩の他に、ジェイムズ・ジョイス「室内楽」をはじめとして、オルダス・ハクスリー、モルナール・フェレンツ、シャーウッド・アンダーソン、ヴァージニア・ウルフなどの翻訳が残されている。 2016年、中保佐和子が翻訳した左川ちかの全詩集がアメリカ翻訳者協会ルシアン・ストライクアジア翻訳賞を受賞した。日本語から英語に翻訳された作品として初の受賞だった[2]。 著作
関連書籍
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