左近允洋
左近允 洋(さこんじょう ひろし、1931年7月26日[1][2] - 2008年3月10日[3])は、日本の音響監督である。妻は声優の麻生美代子[3]。グロービジョンに所属していた[4]。 略歴鹿児島県出身[3]。山口県立山口高等学校(56期)[5]、早稲田大学芸術科卒業[1]。 高校時代は弁論部に所属していたが、風刺劇に出演したことがきっかけで演劇部の設立に参加し客員部員となる[5]。 1955年、新演劇研究所に入所[1]。1959年、劇団新演の創立に参加[1]。劇団と並行して東京俳優生活協同組合に所属[2]。 1964年1月、新演の活動状況に反対して退団[6]。舞台演出の道を志したが仕事に恵まれず、その後音響演出に携わるようになり、アニメや数多くの外国TVドラマ吹替を演出[7]。吹替の創生期から活躍するベテランであり、日本語版演出の草分けの一人であった。 1998年頃、体調を崩し第一線を退く[8]。2005年には脳梗塞で倒れ、施設に入所していた[9]。 2008年3月10日午後6時20分、偽膜性腸炎のため死去。76歳没[3]。 人物・エピソード代表作に『刑事コロンボ』シリーズの演出があり、日本語のドラマとして成立するように工夫を凝らしていた[3][7]。 細かく真面目な性格で知られ、演出作は本番まで緻密な準備を行いギリギリまで妥協しなかったという[10][11]。 収録当日も現場で台本を修正することが常だったといい、開始後は出演者に口頭で2時間ほどかけて修正部分を伝え、区切りや息継ぎを含む細かい演技指導をした後、最初から最後までぶっつけで録るという演出スタイルであった。また、この姿勢から左近允の台本は書込みでいつも真っ黒だったという逸話がある[11][10]。 池田秀一によると、本番が始まるとキャストに注文をすることは一切無かったといい、「僕は役者さんを信じてる」「もしダメだったら二度と使わなければいいんだ」と話していたという。また、ある時に池田が「朝(当日)のホン直しに時間かけすぎだよ。時間がもったいないし、直すなら台本を刷る前にやってよ」と伝えたところ、「そんなことしたら、僕の存在感がなくなる」と冗談まじりで返されたという。 玄田哲章によれば、演出する作品は繰り返し観るため、収録時にはどの場面について訊いてもすぐ答えていたという[12]。また、とある作品で起用された声優が『割り振られた役が自分には合ってないんではないか』という話をしたところ『僕はこの映画、100回は観てるんだよ!!』と一喝したことがあるという(が、この件は左近允側のミスだった)。三ツ矢雄二によれば「アフレコ時に『セリフが収まりきらないのでは』と弱音を吐くと『入ります』と自信を持って答えられた」とのこと[13]。 演出作では起用するキャストを固定することがあり[14]、常連出演者は「左近允組」などと呼ばれていた。一方で人から紹介された役者は拒まずに起用する一面もあった[15]。 翻訳家の額田やえ子とは、『刑事コロンボ』をはじめ『ジェシカおばさんの事件簿』や『ブルース・ブラザース』、『ミッドナイト・ラン』など多くの作品でコンビを組んで仕事をしていた。額田は声優の持ち味を生かせるよう“アテ書き”も台本に仕組む緻密な台本作りを持ち味としていたが[16]、左近允と組む際は現場での手直しを見越して敢えて翻訳を細かく作り込まない形で台本を仕上げる(場合によっては左近允が放送尺の都合でカットするシーンをあらかじめ予想して一部訳さずに原稿を渡すこともあった[11][17])など、彼の仕事に配慮を見せていた[18]。 後輩で長らくアシスタントを務めた演出家の吉田啓介は「真面目な方で、演出もきっちりしてるんですよ」と話している[11]。また、俳優の麦人は左近允を「頑固なほど真摯に仕事と取組む凛とした姿勢」「反骨の野武士」と語っている。 若い頃は大島渚と一緒に活動をした時期があり、大島が監督した『日本の夜と霧』では学生役で俳優として出演している[11]。 参加作品特記のないものに限り、アニメ作品は音響監督、吹き替え作品・舞台作品は演出としての参加。 TVアニメ1971年 1971年 劇場アニメ1981年 1996年 吹き替え映画
ドラマ舞台1959年
1959年
1960年 1962年
出演舞台(出演)
映画(出演)
テレビドラマ(出演)脚注
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