市ヶ谷刑務所市谷刑務所(いちがやけいむしょ)は、かつて存在した日本の刑務所である。1922年(大正11年)までは「東京監獄」と呼ばれていた。 市谷刑務所と近接して、別に「市谷監獄」があった。1903年(明治36年)から1910年(明治43年)の間は両者が並存しており、しばしば混同されたりする。 東京監獄・市谷刑務所北緯35度41分39秒 東経139度42分55秒 / 北緯35.694042619968876度 東経139.71525651036066度 東京監獄(市谷刑務所)のルーツは、皇居の近くの鍛冶橋に存在した「警視庁鍛冶橋監獄署[1]」である。 1903年(明治36年)に内務省(警視庁)から司法省へ移管され、「東京監獄」と改称された。同年6月に東京駅の建設のために鍛冶橋から東京市牛込区市谷富久町(現:東京都新宿区富久町)へ移転し、7月1日から事務を開始した[2]。1922年(大正11年) に「市谷刑務所」と改称された。 当初は未決囚を拘置して裁判所へ送致することが主な目的だったが、その後は既決囚を収容するようになり、死刑囚の収監・処刑も行っていた。当時の文献類で「市ヶ谷の未決監」とあるのは東京監獄のことである。 1937年(昭和12年)に市谷富久町から巣鴨刑務所の跡地に移転し、その際に「東京拘置所」と改称された。 エピソード
沿革
市谷監獄北緯35度41分37秒 東経139度43分08秒 / 北緯35.6937033923016度 東経139.71892879049605度[6] 市谷監獄のルーツは伝馬町牢屋敷で、1875年(明治8年)に日本橋小伝馬町より市谷へ移転し、「市谷谷町囚獄役所」として設立された。所管は警視庁で、役所の範囲は現在の新宿区市谷台町全域と住吉町と富久町の一部であった。のちに「市谷監獄」と改称され、1903年(明治36年)に内務省(警視庁)から司法省に移管された。 1910年(明治43年)に東京府豊多摩郡野方村(現:東京都中野区野方)に移転し、「豊多摩監獄」となった。 沿革
跡地現在の靖国通り住吉町交差点から市谷台町へ登る坂は、市谷刑務所への入口であったことから「刑務所通り」と呼ばれていた。現在の坂は住吉町交差点から見て右側に、もともとの道幅の約倍の幅に拡張されており、現在の坂の中央部から左側(左車線)がもともとの刑務所通りにあたる。 刑務所跡地の一部は、現在は「富久町児童遊園」となっており、公園内の刑死者慰霊碑が立っている場所に処刑場があったと言われる。碑は1964年(昭和39年)に日本弁護士連合会が建立したものである。 2018年(平成30年)より、西から北東に向かって跡地を横切る形で環状4号線の工事が行われている[7]。 脚注
参考文献
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